佐山サトルの指導が始まるとジムの空気は一変した――初代王者・川口健次が語るシューティング黎明期
イチオシスト

バックマウントパンチで相手を仕留める川口健次(2006年)
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第49回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
理想の格闘技を追求した初代タイガーマスクこと佐山サトルが創設したシューティング(現・修斗)。前回に続き、この世界最古の総合格闘技団体を黎明期から支えた初代ライトヘビー級チャンピオン、川口健次をフィーチャーする。
【プロレスファンのサロン】「この間、ディック・マードックがさ」
東京・三軒茶屋のスーパータイガージムに通い始めた頃、川口健次は周囲の会員の会話に閉口した。耳に入ってくるのはプロレスの話題ばかりなのだ。ガチガチの格闘技の話題など、少しも聞こえてこない。ジムは完全にプロレスファンのためのサロンと化していた。それから40年ちょっとの歳月が流れたが、川口は「どちらかといえば会員は皆、フィットネス感覚だった」と振り返る。
「あわよくば、プロレスラーになれたらいい。という人ばかりだったと思います」
川口とて、プロレスが嫌いなわけではない。前回記した通り、初代タイガーマスクこと佐山サトルのダイナミックな動きに魅了され、プロレスに惹きつけられ、バックドロップなど実戦でも使えそうな技を研究した。
とはいえ、自分がやりたいことは既存のプロレスの中にあるわけではなく、佐山が提唱する〝全く新しい格闘技″にあった。
短期間とはいえ、佐山が旧UWFで活動していたことも、シューティングとUWFの境界線を曖昧にした。85年秋、佐山はUWFを離脱。プロレスの範疇にあるUWFとシューティングとの違いを繰り返し強く訴えたが、その主張が世間やジムの会員に理解されたとはいいがたかった。
ジムの雰囲気も相変わらず。川口は他のジム生との価値観のズレを感じずにはいられなかった。
「なんかちょっと違う......」
気が合うのは横山忠志、中村頼永らごく少数に限られていた。横山はのちに仕事の関係でオランダに渡り、現地でクリス・ドールマンに見込まれた。逆輸入ファイターとしてリングスに参戦させようという話もあった実力者だ。現在は日本修斗協会副代表という要職に就く。
一方の中村はのちにアメリカに渡り、ブルース・リーと共にジークンドーを設立したダン・イノサントに師事すると共に「USA修斗」を設立。ヒクソン・グレイシーが『バーリトゥード・ジャパン・オープン94』で来日したときには、実質的に大会の主催者だったシューティングとの橋渡し役を務めた、日本MMAの歴史を語るうえで欠かせないキーマンだ。川口はプロレスファンのサロンの空気に、これっぽっちも染まっていなかった。
「僕らは地上最強を目指していたので」
いま、「地上最強」という言葉を耳にすると、荒唐無稽に感じる人もいるだろう。そもそも何をもって地上最強なのか、その定義がハッキリしない。しかしながら、当時格闘技に強さを求める若者にとって「地上最強」は魔法のような言葉で、自分が信じた道を歩き続ければ必ず行き着くと信じていた。川口もそのひとりだった。
過渡期だったからか、指導者の顔ぶれの移り変わりは激しかった。入門当初、川口は当時佐山と行動を共にしていた山崎一夫に回し蹴りを教えてもらったことを覚えている。佐山がタイガーマスクとして新日本プロレスを電撃引退したとき、付き人を務めていた山崎は佐山と行動を共にしていたのだ。
「いろいろな蹴りを教えてもらっている中で、山崎さんは『ちょっと教えるのは早いかな?』と言いながらバックキック(後ろ蹴り)の打ち方を教えてくれました」
そのあと、チーフインストラクターに収まっていた宮戸成夫(現・優光)がUWFに身を寄せると、それまでジムにいないことも多かった佐山自らが指導することもあった。まだタイガーマスクの威光が根強く残っていたので、佐山がジムに顔を出すと、会員たちのテンションは自然と高くなった。川口もそのひとりだった。
「佐山先生に直接教えてもらえるなんて、夢のような感じでしたね」
ただ、佐山の指導がスタートすると、ジムの空気は一変した。
「佐山先生が練習をみるときって、きついんですよ。蹴りにしろ、縄跳びにしろ、30分ずっとやらせる感じだったので」
左ミドルキックを打つ練習も30分連続が基本だったという。
「佐山先生は蹴りに対しては『とにかく打ち込め』とうるさかった」

黎明期に思考錯誤を重ね、修斗は「打・投・極」を確立していった
筆者は、指導中に突然キレる佐山を何度か目撃している。YouTube等で拡散され「地獄のシューティング合宿」として有名な、足利工業大学付属高校での合宿の際にも同行取材していた。その中で佐山は、指導したとおりに動けない弟子たちを蹴り飛ばしたり、竹刀で殴り倒したりしていたが、敢えてテレビカメラが回る前で激昂していた。
川口自身は蹴られたり殴られたりするような怒られ方はしたことがないが、指導を受けるうちに怒られないコツを掴んだという。
「佐山先生が教える蹴りは形ができているだけじゃダメなんですよ。形でまず50点。K-1で使われているような蹴りでも、たぶん70~80点。あとは蹴り足の引きの速さと見た目の凄さとバランス。それを統括して実戦的に使いこなしてやっと100点なんですよ」
一方、パンチはスイングフック、いわゆるロシアンフックを重視していた。
「佐山先生と仲のいい藤原敏男先生がそういうパンチだったじゃないですか。遠距離からバーンと飛んでくる感じのフックは総合格闘技の世界だとひじょうに有効だと思います」
シューティングという競技名については、次のように解釈した。
「ポイントを稼ぐのではなく、KOか一本で勝負を決める。殺すまではいかないけど、相手が戦意喪失するまで追い込む。その意味でシューティングと名付けたんだと思います」
産みの苦しみでルール作りは試行錯誤を繰り返した。大会ごとにルールはどんどん変更されていくが、そのたびに食らいついていくしかなかった。その道程は、まるでゴールのないマラソンのようだった。
「自分たちで流れを作れるわけではないし、どういうふうにやっていいのかもわからなかったですからね。最初は掌底を打っていたし」
そう、シューティングも最初からオープンフィンガーグローブを着用して顔面殴打を認めていたわけではなく、手による顔面攻撃はいわゆる張り手に限定されていた。
「やっぱり安全性を考慮して、掌底にしていたんだと思います」
総合格闘技の要のひとつである寝技に関しても試行錯誤が絶えなかった。ある日、シミュレーションマッチとして道場内で実戦に近いスパーリングをやっていたときのことだ。
当時連続して寝技を仕掛けられる時間は「30秒」に制限されていた。しかし、実際に30秒で「待て」がかかる攻防を見て佐山は唇を噛んだ
「30秒だと、ちょっと短い」
現在のMMAでは、グラウンドで有利なポジションを取り、打撃を当てて相手の体力を削った上で関節技や締め技で一本を狙うのは定石だ。しかし制限時間が短いと、相手を極める寸前まで追い込んだにもかかわらず、スタンドからの再開を促されるというケースが多くなる。顔面パンチが解禁されていない時期だから、下になっているほうが亀の体勢になって守りきろうという展開になればなおさらそうだ。
すでに「打・投・極」というシューティングの基本理念はできあがっていたが、それをスムーズに実現するまでには至っていなかった。そのルーツを東京・瀬田のタイガージムまで遡るならば、シューティングは89年5月にプロ化を達成するまでに実に5年もの歳月を要している。シューティングと同時期に旗揚げしたシュートボクシングは最初からプロとして始まっているので、シューティングからUWFやシュートボクシングに移籍する者も多かった。
86年6月からはプロ化の準備期間ともいえるプリシューティングの大会がスタートした。入場料は500円。「佐山サトルが創設した新たな格闘技」ということで、第1回の会場となった後楽園ホールはほぼ満員の観客で埋まっていたが、川口は手放しで喜ぶ気持ちにはなれなかった。せっかくの晴れ舞台なのになぜ?
「正直、こんな技術だったらまだお客さんに見せられない。まだまだシューティングはダメだと思ったんですよ」
当時のトップは、のちに「リアル・グラップラー刃牙」として話題を呼ぶ平直行だった。
平は「俺はもう対戦相手を殺すつもりでやるから。大道塾の人たちも見に来るから絶対にやるぞ」と周囲を鼓舞した。
平はもともと格闘技の経験があったが、川口を筆頭にスーパータイガージムから格闘技を始めた者も多かった。
「僕も入門してそんなに月日は経っていなかったので、平さんの言葉に相槌すら打てなかった。教えてもらったことをやるだけだった。だからパンチやキックを打って、タックルか首投げにいくくらいしかできなかったですね」
案の定、大会が終わると、ダウンシーンのあった平の試合以外は「全然面白くない」と酷評された。すでにプロ化へのカウントダウンは進んでいたが、川口は「もっとアマチュアで下地を作ったほうがいい」と感じた。しかし、それを言い出すような立場にはなかった。選手たちの実力が伴わないまま、シューティングは独り歩きしていく。
(つづく)
取材・文/布施鋼治 撮影/長尾 迪
記事提供元:週プレNEWS
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。
