ワルチング・マチルダ~メルボルン、ゴールドコースト、シドニー(2)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
イチオシスト

メルボルンのランドマークという、フリンダースストリート駅。おぼろげに記憶にあるような、ないような......
30年ぶりのメルボルン。空いた時間に訪れた博物館で、オーストラリアへの入植にも、感染症が色濃く関係していた事実を知る。
※(1)はこちらから
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メルボルンという街私にとって、実に30年ぶりのメルボルン。その街並みを目にして、これまでにあまり感じたことのない、不思議な感覚を覚えた。
昔見たことがあるからなのか、別の街で見た似たものと混同しているのか、はたまたガイドブックやウェブサイトで見ただけなのを勘違いしているのか、妙な既視感のある街並み。
いずれにせよメルボルンには、どこか私の好きな街のテイストを感じた。サンフランシスコ、シアトル、グラスゴー。都会の中に、どこかヒッピーなテイストが息づいた街。
メルボルン市内を散策すると、「フィッツロイ(Fitzroy)」という、サンフランシスコにあるヒッピーの聖地「ヘイトアシュベリー(Haight-Ashbury)」やシアトルの「キャピトルヒル(Capitol Hill)」の雰囲気に似た地区もあったり。クラフトビールをそろえ、テラス席のあるパブもたくさんあったりして、いい感じの雰囲気の中で、おいしいヘイジーIPAを楽しむこともできた。

クラフトビールのヘイジーIPA。うまい
今回の出張で、その主たる目的とは別に、私は密かにあるひとつの目標を立てていた。事前にすこし調べたところ、オーストラリアでは、カンガルーやエミュー、クロコダイルの肉を食べることができるという。
サウジアラビアではラクダの肉(71話)を探し求め、エクアドルではテンジクネズミ(クイ)(60話)を食べた私である。これらにトライしないわけにはいかない。
そして、ホテルに向かう帰り道。立ち寄ったスーパーでさっそくカンガルー肉を見つける。うまい具合に、今回の滞在先にはキッチンがついていた。迷うことなくそれを購入し、ホテルでステーキにしてみる。
......が。開封すると、なんかめちゃくちゃにくさい。獣臭とも違う、なんとも独特な、たとえようのない臭いが漂う。ミディアムくらいの焼き加減で食してみるも、やはりその臭さは抜けない。結局細切れにして、ウェルダンなくらいにガンガンに焼いて、塩コショウで濃く味付けしてなんとか食べられる、という感じだった。
ネットでちょっと調べてみると、「カンガルーのお肉、高タンパク質だし、臭みもまったくないし、ヘルシーでとっても美味しく食べられました!」などというコメントつきで、ミディアムレアなステーキの写真がたくさん出てくる。
しかし、これらはおそらく嘘だと思う。あるいは、私が食べたカンガルーが、なにかしらの理由で特別くさい個体だった可能性もある。

(左)スーパーで見つけたカンガルー肉。1キロ22ドル(約2200円)。(中央)開封。もう独特の臭いが漂う。(右)ステーキにしてみたが、ちょっと食べられたものではなく、結局バラバラに細切れにして、焼肉のようにしてなんとか完食した。
キッチンがあったからといって毎日自炊したわけではもちろんなく、外食にも出かけた。いろいろ食べたが、あるレストランで食べた、メルボルン名物という「チキンパルマ」は絶品だった。
要は「マルゲリータ風(トマトソースとバジルとパルミジャーノチーズ)のチキンカツ」なのだが、これがまったく脂っこくなくとてもおいしかった。京都・百万遍の近くに「ハイライト」という京大生御用達の名物定食屋があるのだが、そこのチキンカツを、オリーブオイルで揚げて、ヘルシーかつオシャレにした感じの味。

(左)メルボルン名物という「チキンパルマ」。オシャレにおいしい味。(右)参考まで、京都の貧乏学生の味方、京都・百万遍にある定食屋「ハイライト」のチキンカツ定食。こうやって並べてみると、なんとなく似てなくもない?
メルボルンにはベトナム人移民が多いのか、ベトナム料理屋もよく見かけた。中でも、フィッツロイ地区で見つけたベトナム料理屋で食べた「ブン(そうめんのような麺の感じの米麺)とクリスピーポークのサラダまぜそば」は絶品だった。
なますのような透明のソースがついていたのだが、これがなんともえも言われぬ美味しさ。なますや酢の物が苦手な私は、このソースの見た目で辟易していたのだが、味はまったくなますにあらず。ちょっとした甘さと酸味のある独特なソースで、これがブンと揚げたポークとサラダ野菜ととてもよく合った。

(左)フィッツロイ地区のベトナム料理屋で食べた「ブンとクリスピーポークのサラダまぜそば」。添えられたソースの写真を撮らなかったのは痛恨だったが、めちゃくちゃに美味いブンのまぜそばだった。(右)山盛りのポークの下には、こんな感じでブン(そうめんのような形状の米麺。ちなみに「フォー」とは、きしめんのような平打ち麺の米麺のこと)が載っている。
そして、メルボルンの街を歩いていてちょっと意外?だったのは、やたらと路上でタバコを吸っている人を見かけたこと。それもヒッピー感を醸し出すひとつの理由ではあるのだが、2020年代のアメリカ西海岸で、路上喫煙者を見かけることはほとんどない。
そんなこともあって、私の体感としてのメルボルンは、「10年前のシアトル」というのがいちばんしっくりとくる表現だった。
「招待講演ツアー」今回の渡豪は、いわば「招待講演ツアー」である。
どういう経緯で声をかけられたのかはよく覚えていないのだが、「BIOMOLECULAR HORIZONS 2024」という、メルボルンで開催される、英語の教科書の名前のような国際学会に招待されたのだ。
いざ来てみるとそれは、参加者1500人を超える国際的な生命科学についての研究集会で、そこでの基調講演(keynote speaker)を仰せつかったのだった。
その翌日には、やはりどういう経緯だったかはよく覚えていないが、「上記の研究集会でメルボルンを訪れているのであればぜひ」と、バーネット研究所というところにも呼ばれ、そこでも講演をした。バーネット研究所では、講演のお礼にと、花束までもらった。

オーストラリアらしい?、不思議な花の花束。
そして、メルボルン最終日。季節が真逆の南半球ではまだ花冷えのする9月の午前中、X(旧ツイッター)でつながっているあるフォロワーと、メルボルン市内を流れるヤラ川河畔のカフェで、ホットカフェラテを一緒に飲んだ。
「私が研究集会に参加するためにメルボルンに来る」ということを、学会アカウントのXのポストで知った彼が、私に「会いたい」と私信してきたのだった。
「面識のない(SNSの)フォロワーと会う」というなんともオフ会チックなイベントだったが、データサイエンティストである彼と、18世紀にメルボルン開拓の足場となった港にあるカフェで、やはりその開拓の動線となったヤラ川を望みながら、次に流行するかもしれない新型コロナ変異株についてあれこれと談義するのはなかなか趣があった。

(上)「メルボルンに来るなら、会わないか」という突然のお誘いメール。(下)X(旧ツイッター)のフォロワーのマイクと。もちろん初対面。写真はマイクのXのポストから。年始のユンロンの電撃訪問(86話)と同様、ただのおっさんふたりのポストにすごい数の「いいね」が付いた。
滞在中、ちょっと時間が空いたので、私にしてはめずらしく博物館を訪れてみることにした(ちなみに、博識ではない私は、博物館や美術館の類に興味を持つことがほとんどない)。
海外出張の合間にわざわざ博物館に足を運ぶことなど、私の記憶が正しければ、10年前にドイツのデュッセルドルフから足を伸ばした、ネアンデルタール博物館以来のことだと思う。
オーストラリアには、「アボリジニ」という有名な先住民族がいる。メルボルン博物館を訪れて、私は初めて、オーストラリアへの入植にも感染症が色濃く関係していた事実を知った。
話はすこし反れるが、1492年、コロンブスによるアメリカ大陸発見を皮切りに、スペイン人が中南米に入植を始めた。これによって、それまでそこで栄華をきわめていた、インカ帝国とアステカ帝国が滅亡する。
その理由として、文明の利器の差も挙げられるが、それにもっとも大きく寄与したのが、征服のために乗り込んできたスペイン人たちが持ち込んだ「病原体」だと言われている。具体的には、天然痘ウイルスと麻疹(はしか)ウイルスである。
当時すでにヨーロッパで蔓延していたこれらの感染症は、新大陸には存在しないものだったのだ。そのため、新大陸の人たちは、これらのウイルスに対する免疫をまったく持っていなかった。
この持ち込まれた病原体によって、高度な文明を誇っていたふたつの帝国は致命的なダメージを受け、滅亡した。
――という、15世紀の新大陸で起こった「感染症有事」は比較的有名な話なのであるが、これとまったく同じ構図が、このオーストラリア大陸でも起きていたことを、メルボルン博物館を訪れて初めて知ることとなった。

(左)アボリジニと天然痘についての展示ブース。(右)「コパイ(kopi)」という石灰の染料を使ってからだに模様をつけた、アボリジニの弔いの儀式の様子。天然痘のブースの横に設置されていた。
西洋史の文脈においては、オーストラリア大陸は1770年、イギリスの探検家トーマス・クックによって発見された。わずか250年ほど前の話である。
その後、イギリス人の入植に伴って起きたのはやはり、スペイン人の新大陸への入植と同様、先住民との争いである。入植前には75万人いたと推計されるオーストラリアの先住民たちは、20世紀初めには7万人まで激減したと言われている。
そしてやはり、18世紀のイギリス人の入植を味方したのも感染症だった。「巨大な孤島」であるオーストラリア大陸には、新大陸と同じく天然痘は存在しなかった。そのため、入植者たちが持ち込んだ天然痘が、アボリジニたちに致命傷を与え、その多くを葬り去ってしまったと伝えられている。
※11月2日配信予定の(3)に続く
文・写真/佐藤 佳
記事提供元:週プレNEWS
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