【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】巨人の背番号3に憧れ続けた"絶好調男"・中畑清が語る"ミスタープロ野球"③

豪快なバッティングフォームの長嶋茂雄(写真:時事)
長嶋茂雄さんは去る6月3日(火)に逝去されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
昭和33(1958)年に読売ジャイアンツに入団して以降、日本中を熱狂させてきた"ミスタープロ野球"長嶋茂雄。現役を引退したのが昭和49(1974)年、巨人の監督の座を退いたのが平成13(2001)年だ。昭和11(1936)年生まれの長嶋は、2月で89歳になった。
1994年生まれの大谷翔平世代が球界の中心にいる今となっては、彼の活躍を思い出すことは難しい。昭和の名シーンを再現するテレビ番組さえつくられることが少なくなった。しかし、このレジェンドの存在を抜きにして、日本のプロ野球を語ることはできない。
生涯打率.305。プロ17年間で通算2471安打、444本塁打を放ち、6度の首位打者、2度の本塁打王、打点王は5回。5度のMVP、17回もベストナインに輝いている。
しかし、1974年10月にユニフォームを脱いでから50年が経った。彼のプレーを実際に記憶している人は少なくなっていく......現役時代の長嶋茂雄はどれだけすごい選手だったのか――チームメイトや対戦相手の証言から、"本当の凄さ"を探る。
今回登場するのは1980年代、読売巨人軍の主力選手として人気を博したおなじみ、中畑清。少年時代から憧れの的だった長嶋監督の下、同じ右打者、強打のサードとしてプレーした中畑にとって「選手・長嶋茂雄」、そして「人間・長嶋茂雄」とはいかなる存在だったのだろうか? いま改めて、その想いを聞かせてもらった。
②はこちらより* * *
――サードのポジションを獲得した中畑清さんは1980年に124試合に出場し、打率.268、22本塁打という成績を残しました。その年のドラフト会議で読売ジャイアンツが指名したのが原辰徳選手。5月に中畑さんが故障したことで原さんがサードに入り、中畑さんはファーストにコンバートされました。
中畑 もちろん原も、長嶋茂雄さんに憧れていたんだよね。巨人のサードは特別なポジション。俺にとっては聖地だった。それを自分よりも若い選手に取られたことは最大の屈辱だったな。
――チーム事情があるにせよ、中畑さんにとってはツラい配置転換ですね。
中畑 長嶋茂雄に憧れて野球を始めて、巨人に入って長嶋さんの下で野球ができて、サードのポジションでレギュラーを取った。それで俺が毎日「絶好調!」って言っている時に入団してきたのが原だから。原は俺にとって最高のライバルだな。
――ファースト・中畑さん、セカンド・篠塚さん、サード・原さん、ショート・河埜和正さんという内野陣が組まれ、8年ぶりのリーグ優勝を飾り、16度目の日本一になりました。
中畑 結果的に、巨人は1980年代に4度のリーグ優勝ができたんだよ。
――ファーストにコンバートされた中畑さんは7年連続でゴールデングラブ賞を受賞。1981年に打率3割をマーク(.322)、1982年に25本塁打、1984年には31本塁打を放ちました。
中畑 ファーストに"左遷"されたおかげで長くプロ野球でプレーができた。俺のコンバートは天が与えてくれたもので、チームがまとまって強くなるためには一番いい方法だったのかもしれない。だから、当時の選手たちに言ってるんだよな、「俺に感謝しろ」って。それが一番わかっているのは篠塚だよ(笑)。
――その中畑さんが1989年に再びサードを守ることになりました。
中畑 オレにとって現役最後の年だね。原のコンディションがあまりよくなくて、守備範囲も狭くなった。俺も30代半ばになっていたけど、もう一回サードを守らせてもらってうれしかったよ。でも長くファーストを守っていたから、肩がなあ......どんだけ頑張っても若い時のようにはいかなかった。ファーストの駒田徳広がうまかったから助かったけど。
守備位置につく長嶋茂雄。長嶋がサードを守ったことで三塁手はスター選手を象徴するポジションとなり、野球少年の誰もが憧れる「聖地」となった(写真:時事)
――長く長嶋さんが守ってきた"聖地"に戻って何を思いましたか?
中畑 送球には余裕がなかったけど、サードというポジションは観客に対して、動きとかしぐさで野球の楽しさを表現できるんだなと思った。当時の監督だった藤田元司さんからのご褒美だったのかもしれない。サードはチームの顔であるスターが守るところだと感じたね。
――20代半ばでレギュラーを目指して必死だった頃には気づけなかったことですか?
中畑 そうかもしれない。思い返すと、長嶋さんへの歓声はほかの選手とは全然違った。
22歳で巨人に入団した時からファンの視線を意識していたと本人から聞いたけど、本当にすごいことだよね。どんな動きをすれば観客が喜ぶかを考え続けていたんだろう。
――中畑さんは通算1294安打、171本塁打を記録し、1989年限りで現役を引退。1992年に長嶋さんが巨人の監督に就任する際に、一軍打撃コーチになりました。2004年アテネオリンピックに出場する日本代表でも、長嶋さんのもとでヘッドコーチ(本大会では監督)をつとめました。
中畑 長嶋さんは、ファンを笑顔にさせるためにこの世に生まれた「野球の天使」なんじゃないかと思う。喜怒哀楽を体で表現して、生きる楽しさをみんなに見せてくれた。感動や悲しさ、悔しさや喜びを与えてくれた人。そこに立っているだけで、「明日も頑張ろう」と思わせてくれる野球人だったね。
――戦後の日本、高度成長期に奮闘する日本人に勇気を与えてくれるプロ野球選手だったんですね。
中畑 本当にそうだよね。野球のプレーを通じて、そういう表現ができるのはやっぱり長嶋さんだけじゃないかな。後にも先にもいないと思う。
俺が大学を卒業した1970年代の日本は、まだ全員が豊かだとは言えなかった。工場で勤務する人、職人さんとか肉体労働に励む方々にとっては特に、長嶋さんは大きな存在だったと思う。厳しい仕事をしている人にとっては唯一の息抜きというか、楽しみだったんだよな。「長嶋があれだけ頑張ってるんだから、俺も頑張ろう」と思う人が多かったはずだよ。
――プロ野球選手の枠では語れない存在ですね。
中畑 もちろんそうだよ。「日本に明るい未来があるぞ」と思わせてくれた人。確実に日本を元気にしたスーパースターだったよね。
次回の更新は6月14日(土)を予定しています。
■中畑清(なかはた・きよし)
1954年、福島県生まれ。安積商高より駒大を経て、1975年にドラフト3位で巨人に入団後、強打の三塁手/一塁手として活躍。「ヤッターマン」「絶好調男」として人気を博し、優勝に貢献した。1989年に現役引退後は巨人の打撃コーチを務めたのち、体調不良の長嶋監督に代わりアテネ五輪日本代表監督に就任、チームを銅メダルに導いた。その後、初代DeNA監督も歴任した。
取材・文/元永知宏
記事提供元:週プレNEWS
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