原口元気「本当はドリブルで勝負したい気持ちも強かった」ヘルタ時代の挫折と決断を語る『NumberTV』第19話

『NumberTV』第19話
NTTドコモの映像配信サービス「Lemino(レミノ)」では、さまざまなジャンルのトップアスリートを招き、彼らの競技人生における「最大の挫折」の真実に迫る『NumberTV』を配信している。その時何を感じ、どう壁を乗り越えたのか。選手本人が当時の写真と向き合いながら、復活までの道のりを明かす本格ドキュメンタリーだ。#19では、サッカー・原口元気選手の挫折と苦悩に迫る。
原口元気の挫折と決断
浦和レッズで華々しく活躍した原口は、各年代の代表にも選ばれてきた。2011年10月にはA代表デビューを果たす。ところが、2012年のロンドン五輪では出場権獲得に貢献しながらも落選、さらに2014年のブラジルW杯でもメンバー入りは叶わなかった。環境を変える必要があると考えて、新天地として選んだのはドイツだった。
当時を振り返る原口は「そのときはすごく悔しくて。(ロンドン五輪落選直後の)次の試合で2点取って...喜んでるんだか泣いてるんだかわからないようなシーンがあったり。その後さらに、少しの希望を持ちながら待っていたブラジルW杯でも選出されず。そこで慣れ親しんだ浦和を出るという決断をしました」と語る。当時浦和レッズでともにプレーしていた槙野智章については、「兄貴みたいな感じ。悪いときは怒ってくれるときもあったし、いいときは励まして、どんどんやれと調子づかせてくれるときもあった。本当に精神的にもいろいろな面で助けてくれた存在でした」と明かした。
2014年。ドイツにわたって最初のクラブ、ヘルタ・ベルリンではコンスタントに出場を続けていたものの、ドイツにおけるプロサッカーリーグのトップディビジョンであるブンデスリーガへの順応は難しく、自信を持っていた攻撃的なプレイスタイルにも迷いが生じていた。それが、自分と同じくらいの能力を持った人がたくさんいる中での競争ということ、何か変えていかなければいけないということに気づき始めたときだった。
本当はドリブルで勝負したい、本当はゴール前で待っていて勝負したいという気持ちもとても強かった。しかしドイツで生き残るためプレイスタイルを変えていく決断をし、そのための努力をし始めたという。そんな当時の原口を公使にわたってサポートしたのが、ヘルタのチームメイトであり浦和レッズの先輩・細貝萌だった。細貝が語る、当時の原口の姿とは...。
【制作・編集:All About編集部】
記事提供元:Lemino ニュース
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