【『タイムボカンシリーズ』50周年特別インタビュー①】キャラクターデザインを担当した天野喜孝がドロンジョを演じてほしかった女優とは?
1975年の放送開始から根強い人気を誇る『タイムボカンシリーズ』が、今年50周年を迎える。作中で連発されるナンセンスなギャグと洗練されたビジュアルは、今見ても斬新だ。
6月23日に発売された『週刊プレイボーイNo.27』では、「メカ・キャラデザインの秘密を説明しよう!」と題し、当時キャラクターデザインを担当した天野喜孝氏、メカデザインを担当した大河原邦男氏の巨匠2人に取材を実施し、シリーズの魅力に迫った。
本記事では、誌面に掲載された天野喜孝氏のインタビューを拡大版にて再掲。『タイムボカン』の主人公・丹平、淳子やロボット・チョロ坊のほか、『タイムボカンシリーズ』を象徴する悪役三人組(三悪)のキャラクターデザインを手がけた氏に当時の裏話を聞いた。
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――天野先生は15歳でタツノコプロ(当時、竜の子プロダクション)に入社。『タイムボカンシリーズ』のキャラクターデザインを担当されることになった経緯を教えてください。
天野 いやー、経緯はわからないですね。
――わ、わからない!?
天野 シリーズ1作目の『タイムボカン』(1975)に着手し出した1973年頃、僕はまだ21歳で、タツノコプロの社員としては一番の下っ端でしたから。言われるがままにやってました(笑)。
――21歳とはいえ、先生は当時、すでにキャラクターデザインをいくつも手がけていましたよね。
天野 そうですね。その頃、『新造人間キャシャーン』(1973)、『破裏拳(はりけん)ポリマー』(1974-75)など週に3本。他にも新企画のキャラクターを担当し多忙を極めていました。そんな中で話が来た(笑)。とはいえ『タイムボカン』は、放送がなかなか決まらなかったんですよ。「タイムマシーンものはヒットしない」ってジンクスがあって。だから結構、時間をかけられた記憶がありますね。
――デザインにあたり、総監督の笹川ひろしさんや企画の鳥海尽三さんなどから指示は?
天野 なかったです。当時のタツノコプロは本当に忙しくて、指示どころじゃないというか。みんな、自分の役割を果たすことだけに集中していました。キャラクターデザインをする上では、作品の企画書にプロットと設定があるんです。そこからイメージを膨らませて描く。並行して脚本や背景などの担当者が作業していて、1週間ごとに各自が出来上がったものを持ち寄って、すり寄せして、仕上げていくって感じでした。
――過去のインタビュー記事を読むと当時、三悪のキャラクターデザインになかなかOKが出ず、 苦労したとか。
天野 何に苦労したかは忘れたけど、終わるまで帰るなと言われ、1週間、旅館に缶詰になったのは覚えています(笑)。旅館には僕だけでなく、社長(吉田竜夫氏)とかもいるんですよ。寝食を共にするわけだけど、緊張感がイヤで。逃げ出せないかいつもうかがっていました。
――キャラクターデザインをする上で、こだわった点は?
天野 僕はもともとディズニーやハンナ・バーベラ、あるいは『スーパーマン』など、アメリカのアニメやコミックが大好きで、普段の絵もそれらからの影響が大きいんです。ただ『タイムボカン』はギャグ作品。従来の自分の絵柄でリアルに描きつつ、デフォルメも多用しました。
三悪のグロッキーの大きな鼻やワルサーの四角い口元などがそう。『キャシャーン』のようなシリアスな作品だとデフォルメはしづらい。リアルな絵も崩れた絵も両方描けるのは、すごく自由だなと思いました。
また、当時はアンディ・ウォーホールなどのポップアートが大流行していて、僕もハマっていました。仕事を全部放り出して、自分もそっちの世界に行きたいと思ったくらい(笑)。『タイムボカン』の主人公・丹平、淳子のコスチューム、ロボット・チョロ坊のデザインは、その鬱憤を晴らすようにカラフルかつポップに描きましたね。
赤黄青を基調にしたコスチュームは、スーパーマンを彷彿させる。ポップアートに加え、アメコミ好きの嗜好も表れている。©タツノコプロ
――先生はメインキャラクターに加え、各話に登場するゲストキャラクターのデザインも書くわけですよね。
天野 じつはそちらのほうが大変で。なにしろ毎週10体はありましたから。しかも『タイムボカン』はいろいろな時代に行くので、時代考証を丁寧にやらないといけない。当時は今みたいにネットがないから、本屋さんへ行ってひたすら資料を漁りました。
――その後、『タイムボカン』はシリーズ化され、先生は第7作の『イタダキマン』(1983)まで手がけましたが、キャラクターで特に気に入っている作品は?
天野 第2作の『ヤッターマン』(1977)ですね。主人公のガンちゃんとアイちゃんは、当時流行っていたツナギを着せてカッコよく描けたし、三悪のドロンボー一味のデザインにも満足しています。
特にドロンジョはマスクにバットマンの要素など入っていて、自分でいうのもなんですけど洗練されていますよね。国内外でドロンジョのコスプレをする人が絶えませんが、嬉しいですよ。
©タツノコプロ
――ちなみに先生が描いたキャラクターにモデルはいるんですか? 一説にはドロンジョは、フランスの女優、ミレーヌ・ドモンジョがモデルだと言われていますけど。
天野 モデルはいないですね(きっぱり)。ミレーヌ・ドモンジョの話もよく聞かれますけど違います。当時、僕は年上の女性に憧れていたので、ドロンジョには自分の理想像が現れていたかもしれませんが。
――映画などから影響を受けるようなことはなかったんですか?
天野 ありましたよ。それこそ『破裏拳ポリマー』の主人公・鎧武士(よろいたけし)はブルース・リーに影響を受けています。それに、社長からは新しい作品に着手する際、映画館へ行ってこいとよく言われていました。事情を知らない他の社員は「天野は会社に来ないから、クビにしろ」なんて言っていたみたいですけど(笑)。
――ちなみに『ヤッターマン』は2009年に実写映画化され、深田恭子さんがドロンジョ役を演じられました。先生の中で、実写化されるならやってほしいと思っていた女優さんはいますか?
天野 いや、そういう発想はなかったですね(笑)。でも今思うと「愛の水中花」を歌っていた頃の松坂慶子さんはイメージに近かったかもしれないです。妖艶な大人のお姉さんって感じがしました。
――『タイムボカン』の放送開始から今年で50年。いまなお高く支持されていますが、その理由はなんだと思われますか?
天野 なにより自由だったからでしょうか。キャラクターデザインに関して言えば、『タイムボカンシリーズ』はタツノコプロだから好き放題に描けたんだと思います。タツノコプロの作品は、基本的にほかのアニメ制作会社が手がけるのと違って原作がない。作画の縛りがないんですよね。
あと全体のことを言えば、当時のスタッフは、アニメより映像志望の人が多く、実験的なことを常に試みていました。また年齢も20代、30代と若かった。子供向けの作品ではあったけど、自分らが面白いと思うことをやろうって空気に満ちていた。それらが形になって作品に現れたんだと思いますね。
――最後に、天野先生自身が『タイムボカンシリーズ』で学んだことはありますか?
天野 「スピード」と「忍耐」ですよね。それはもう間違いないです(笑)。アニメからイラストの世界に身を移し40年以上たちますけど、あの頃がなければ絶対ここまでやってこられなかったはずです。『タイムボカンシリーズ』は自分の青春そのもの。二度と戻りたくはないですけどね(笑)。
◯天野喜孝(あまの・よしたか)
1952年生まれ、静岡県出身。15歳でタツノコプロへ入社。ゲーム『ファイナルファンタジーシリーズ』のデザインで世界中に広く知られる。現在は画家、イラストレーター、デザイナーとして活動中。
■50周年を記念しタツノコプロ公式アパレルブランド「ボカンデパートメント」にてオリジナルTシャツ発売中!今後もタツノコプロ作品のデザインを追加予定。続報はタツノコプロ公式X【@tatsunoko_pro】をチェック!
取材・文=大野智己
記事提供元:週プレNEWS
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