藤原清衡が建てた中尊寺金色堂が平泉文化が黄金文化であったことを象徴する理由とは?【日本史】
更新日:
イチオシスト:イチオシ編集部 旬ニュース担当
注目の旬ニュースを編集部員が発信!「イチオシ」は株式会社オールアバウトが株式会社NTTドコモと共同で開設したレコメンドサイト。毎日トレンド情報をお届けしています。
後三年の役で勝ち残った藤原清衡(きよひら)は、陸奥国と出羽国、奥羽二カ国を統合する主権者となりました。早速、安倍時代、衣川(ころもがわ)関があった土地に大伽藍(だいがらん)を建立。仏教都市を建設します。内紛で荒れた地に仏の教えに導かれた独立王国を建設せんとしたのです。
いま、その大伽藍群を見ることはできませんが、唯一残る中尊寺金色堂(こんじきどう)は、上下四壁を金色に塗り、螺鈿(らでん)を散りばめた中檀を構え、阿弥陀三尊・二天・六地蔵を安置する豪華な造りであったことが、平泉文化が黄金文化であったことを偲ばせてくれます。
度重なる戦乱で無念の死を遂げた人々の霊を弔うだけでなく、「俘囚(ふしゅう)の国」とされてきた過去を払拭する意味もありました。磐城白河関から津軽外ヶ浜まで二十日余りの行程の中心に中尊寺を建て、一町毎に笠塔婆を立てたと言われています。
約百年に渡って、燦然(さんぜん)輝きました。
出典:『図解 眠れなくなるほど面白い 日本史』著:鈴木旭
記事提供元:ラブすぽ
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。