ラップを歌いながら踊るプーシキン 【沼野恭子✕リアルワールド】
イチオシスト
アレクサンドル・プーシキン(1799–1837)と言えば、ロシアの天才詩人で、近代ロシア文学の礎を築いた「国民作家」である。ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイよりはるかに愛され、尊敬されている。
そのプーシキンが現代風のラップを歌いながら踊るというユニークな趣向を取り入れた伝記的映画「預言者 アレクサンドル・プーシキン物語」(2025年)が、今年2月、東京で上映された(主催:エース・スクエア)。学習院(リツェイ)で自作の詩を暗唱して神童ぶりを発揮する場面から、農奴制と専制に反対する「デカブリストの乱」に加わることになる友人との交流、政治詩を書いて南方に追放され、結婚し決闘する場面まで、その生涯における重要な出来事がスピーディーに描かれている。
31歳のフェリクス・ウマーロフ監督によるこの痛快な音楽ファンタジーは、ロシアにおいて興行収入10億ルーブルを超えるヒット作となり、2026年「金の鷲」賞(最優秀監督賞)を受賞した。
しかし、皇帝権力に対峙(たいじ)し最後まで弾圧を受けていたプーシキンその人を扱った映画なので、映画に出てくる彼の「やがてロシアが眠りから跳ね起きたら、専制の廃墟の上に僕らの名が記されるだろう!」という詩句をどう解釈するかは微妙なところだ。現状に引き寄せて、強権政治から解放されることへの期待を込めたメッセージと受け止められなくもない。
プーシキンの名を用いることも両義的だ。例えば、イギリスの独立系文化センター「プーシキンハウス」は、毎年、スラヴ文化圏の理解を促進する優れた書物に対して「プーシキンハウス図書賞」を授与しており、2024年には、ロシアの反体制ジャーナリスト、エレーナ・コスチュチェンコ(1987年生まれ)のルポルタージュ『私の愛するロシア』(邦訳は高柳聡子訳、エトセトラブックス、2025年)にこれを与えた。自由を求め、性的マイノリティー差別に反対するコスチュチェンコの主張が、ロシア現政権のイデオロギーと相いれないことは言うまでもない。
一方、ロシアにもプーシキンの名を冠した報奨制度がある。文化や芸術などの功績に対して授与される国家勲章「プーシキン・メダル」だ。2025年には、俳優の栗原小巻さんがプーチン大統領よりこのメダルを授与された。長年、日露文化交流に尽力してきたためであろう。ちなみに、ロシア政府が主体となって実施している「ロシア文化フェスティバル 2025」では、栗原さんが日本側組織委員長を務めている。
しかし、隣国を侵略している国の文化勲章を「文化交流」の慶賀すべき出来事と捉えていいものだろうか? プーチン政権によるソフトパワー戦略(文化や価値観などによって相手を魅了する方策)の一環であることは明らかである。
プロパガンダに利用されるのは、プーシキンからしたら迷惑な話だろう。「専制の廃墟の上に僕らの名が記される」のは、いったいいつのことなのか・・・。

沼野恭子(ぬまの・きょうこ) 1957年東京都生まれ。東京外国語大学名誉教授、ロシア文学研究者、翻訳家。著書に「ロシア万華鏡」「ロシア文学の食卓」など。
記事提供元:オーヴォ(OvO)
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