AKB48倉野尾成美(くらのお・なるみ)「AKB48に入って初めて、頑張り方がわからなくなりました」【連載 なんで令和にAKB48? Season2】
2005年(平成17年)12月8日に秋葉原で産声を上げたAKB48。前田敦子、高橋みなみ、小嶋陽菜、篠田麻里子、大島優子、指原莉乃ら数々のスターを生み出し、誰もが知る国民的アイドルグループとなった。
あれから20年、数々の伝説を作ったAKB48劇場は昨年末に完全リニューアルされ、それに合わせておよそ9年ぶりのオリジナル公演がスタート。そしてグループとして再び東京ドームに立つという目標が掲げられた。そんななかで現役メンバーは何を思うのか? 今、AKB48を見る意味とは?
昨年3月よりスタートした若手インタビュー連載に続いて、在籍6年以上のメンバーに話を聞く「なんで令和にAKB48? Season2」がスタート。
第1回はAKB48グループ4代目総監督の倉野尾成美(くらのお・なるみ)。2014年4月3日に13歳でチーム8熊本県代表メンバーとしてデビュー。前編は子供時代のことを語ってもらった。
■AKB48に合格して「上京して頑張るぞ!」と思ったら、そうじゃなかった――今回の連載は最初にAKB48人生のターニングポイントを聞かせてもらっています。
倉野尾 私の場合は1年おきぐらいにターニングポイントがあります。でも一番に思いつくのは『根も葉もRumor』(2021年9月29日発売)ですかね。コロナ禍を経て初めてリリースさせていただいたシングルで、久しぶりにAKB48メンバーだけで選抜が構成されて、本当に気合いを入れて臨もうという空気感がよかったなって。
選抜メンバーとして活動したからこそ味わえたシーンがたくさんありましたし、私はこの曲で選抜復帰だったんです。ロックダンスに初挑戦というのもあって、これはAKB48にとっても大きなターニングポイントになりそうだなってすごく感じていました。
――ここからは倉野尾さんの歴史を振り返っていきます。小さい頃はどんなコでした?
倉野尾 物心ついた頃から活発なコで、活発具合は幼稚園が人生で一番ピークだったなってくらい。好奇心旺盛だったこともあって、小学校に入ってからは勉強を頑張りたいし、かけっこも一番になりたいみたいな。何にでも追求心を持っているタイプでした。
――AKB48との出会いは?
倉野尾 最初に認識したのは『ヘビーローテーション』(2010年8月18日発売)の頃ですかね。総選挙もあって、グループの人気が熊本の方にも届いていて、学校でも流行っていました。お友達がAKB48と指原(莉乃)さんのことが好きで、九州にいたこともあってHKT48のことも教えてくれて。それで私も48グループいいなって。
――そこでAKB48に入りたいって思った?
倉野尾 小学生の頃はキッズモデルをやっていて、そういう世界への興味や関心はありましたけど、アイドルになりたいとは思ってなかったです。
――倉野尾さんはAKB48加入前に、HKT48の3期生(2013年11月2日お披露目)として少しだけ活動していたんですよね?
倉野尾 「親が応募してくれて」って感じで、急に家に電話がかかってきて「オーディションがあるので、審査に来てください」みたいな。本当にびっくりしました。
――そんな思い出が! でも合格したと。
倉野尾 デビュー前にステージに出演できるかが決まるセレクション審査があって、そのために夏休みは朝から晩まで福岡に通ってレッスンしていたんです。でも本当にダンスができなすぎて、下から一番か二番目ぐらいとか。
――今の実力からしたら意外ですね。
倉野尾 それで自信を失いました。1週間ぐらいは頑張っていたんですけど、周りにできるコもいっぱいいて。私はアイドルを見ているほうが好きだったのかなって。そんな中、ちょうどキッズモデルのお仕事をいただいて、そっちに惹かれてしまって、活動を辞退しました。
――一度あきらめたのに、チーム8のオーディションを受けたのは?
倉野尾 レッスンを一緒にやっていた、なこみくちゃん(矢吹奈子&田中美久)の存在も大きかったのかなと思います。秋ぐらいに3期生がお披露目されて、すぐに奈子ちゃんがセンター曲をやっているけど、私は普通に生活していて。
あと、辞める前に受けていた1週間のレッスンでダンスの振り入れがあったんです。その中にできないステップがあって、なぜか辞めてからも、そこだけムキになってずっと練習していたんです。
そしたら、できるようになって踊るのが楽しくなりました。それまで体育祭とかでもダンスが覚えられなくて、居残りさせられて、先輩にすごい怒られた思い出もあって、苦手意識は強かったけど、やってみたら楽しいなって。
――まったくできなかったダンスの面白さに気づいたと。
倉野尾 私、やりたいのかなって。またオーディションがあったら、次は自分の意思で受けてみたいなと。たぶん親がそれを察して、チーム8のオーディションを見つけて教えてくれました。
――加入前にそんなストーリーがあったんですね。でもチーム8って初期はAKB48と別グループみたいな扱いでしたよね。
倉野尾 最初はすごくショックでした。あまりコンセプトとかは見ずに、熊本でオーディションがあるから、とりあえず受けてみたら、合格して。東京への憧れがすごかったので、上京してAKB48として頑張るんだと思ったら、まさかの通いで......。
――47都道府県からひとりずつ選ばれたメンバーが地元密着で活動するみたいな感じでしたよね。
倉野尾 画面で見ていた先輩方と一緒にやるのかなと思ったら、そんなことなくて。最初は楽屋も離れたところにあったり。どうなっていくんだろうと思っていたんですけど、入って3、4ヶ月ぐらいして、『47の素敵な街へ』という楽曲をいただいて。「チーム8として頑張っていこう」。「このチームを自分がどうにかしていかないと」って。
――チーム8は別チームどころか、AKB48に対抗心を持っていましたよね。
倉野尾 最初にAKB48とは違うんだ、私たちは別なんだって実感したからこそ「チーム8で一番を取ってやる!」という気持ちが芽生えたんです。
――ファンも巻き込んで「AKB48をぶっ倒す!」ぐらいの勢いがありました。
倉野尾 一時期はそうでしたね。だから今は不思議な感じです。最終的にAKB48になって。
――そんなバチバチの先頭を走るのが倉野尾さんだったなと。
倉野尾 チーム8は先輩に教わっていくというより、自分たちでどうにかしなきゃいけない状況で、色々挑戦していく環境だったこともあって、すごい責任感を持っていました。「AKB48チーム8です!」って全国を回っていましたね。
――AKB48は初期に「会いに行けるアイドル」というコンセプトでやっていましたが、チーム8は「会いに行くアイドル」と掲げてました。
倉野尾 みんなが知っているようなメンバーはいなくて、お客さんが少ない状況から、徐々に全国ツアーとかホール規模でを埋められるようになって、自分たちの活動の幅が広がっているのを感じました。
このままチーム8で頑張っていったらどこまでいけるんだろうという想いがあって、突っ走っていた感じですね。
――そうやって地道に活動しながらも、倉野尾さんは2017年にチームKとの兼任が発表されました。対抗心を燃やしていたAKB48でも活動することになったことも、ひとつのターニングポイントなのかなと。
倉野尾 確かにそうですね。最初はチームKを利用して、ファンをチーム8に取り込もうって気持ちのほうが強かったですね(笑)。
――メンバーともバチバチして、倉野尾さんのことを"狂犬"なんて言う人もいました。
倉野尾 そう言われることが多かったので、むしろそういった方がいいのかなと思って。『サムネイル』公演のときは、尖ったMCをやっていたんですよ。どうなるんだろうって。
でも実際の自分はそういうタイプじゃなかったから、裏では落ち込むこともありましたね。今だから言えますけど。
――エイター(チーム8ファン)からの期待も大きかったですもんね。そして初選抜は『ジャーバージャー』(2018年3月14日発売)でした。
倉野尾 ずっとチーム8で頑張ろうと思いつつも、頑張った先には「AKB48の選抜に入る」という目標がずっとありました。
チーム8からも徐々にメンバーが選ばれるようになって、自分も選ばれたいなと思うようになっていたし、選ばれることは最終的にチーム8のためになると考えていました。
AKB48の選抜に入って"チーム8"を広めたい一心で、ずっと選抜を目指していたので、初めて選抜に入ったときは嬉しかったです。
――夢が叶いましたね。
倉野尾 でも、実はあのタイミングで選抜に入っていなかったら、たぶん辞めてたんですよ。
当時が自分の中で一番気持ちが落ちていて。もともと人生設計はしっかりしてきたタイプで「何年目でこうありたい」とか、自分の中に計画があったんです。
自分が頑張ればどうにかなると信じて生きてきたんですけど、頑張ってもどうにもならないことに直面したのがその時期で......。毎日すごく落ち込んでいましたね。
――でも選抜に入ったことで持ち直したんですね?
倉野尾 ギリギリでしたけど。入っても最後列だし、16人選抜ではなく、27人選抜だったので、なかなか目立てないなと。選抜に入ったけど、これだと入ってないのと変わらないよねって。
――倉野尾さんは自分を甘やかさないタイプですよね。
倉野尾 ずっと負けん気をもって生きてきて、テストだったら「絶対全部100点とる!」みたいなタイプ。目標を立てて、それを達成してはじめて「やった!」と感じるタイプなんです。
――AKB48活動には点数とかがないですしね。
倉野尾 だから悩んでいました。何をどこまでやれば、選抜に入れるのかなとか、すごい考えて、自分なりに頑張っていたけど、頑張り方がわからなくなってしまって。
勉強好きだったので、大学でしっかり勉強して違う道に進もうとも考えていました。高校でも、最初は大学に行くつもりで勉強していました。
――AKB48で生きていこうと決めたのは?
倉野尾 「ここ!」っていうのは難しいですね。私の中で2018年あたりは全部真っ黒なんですよ。
――でも舞台に出たり、仕事自体は順調だったように見えます。
倉野尾 ずっと落ち込んでいて、本当に周りのスタッフさんに支えられていました。こういう悩みって、メンバーには相談できないのもあって。ひとりでいることも多かったです。
でも何でだろう......、今に至るまで何とか生きているんですよね。
――よく辞めずに続けられましたね。
倉野尾 マネージャーさんとか、一番近くで見てくれていた人がどうにか繋いでくれていたのと、やっぱりファンの方からのお手紙やメッセージに本当に支えられていました。
当時はお手紙を写真に撮って読み返して、毎日仕事していてしんどいときはホメられている手紙を読んで、自分をどうにか肯定して生きていました。
――その時期はどうやって抜けられたの?
倉野尾 何ででしょうかね? でもやっぱりいつもチーム8が近くにあって。一員としてチーム8をどうにかしなきゃという責任感を持った自分がいるんですよ。「チーム8」のために頑張ろうって。
最初の頃からフロントで活動する時間も長くて、自分を肯定してくれるというか、存在していいんだと思える場所みたいな。チーム8の活動があったから続けてこられました。
――AKB48の中では居場所が見つからなかった?
倉野尾 ずっと探していましたね。兼任していたチームKでも目立つ位置にいたからこそ、チームKからの選抜が少ないときは責任を感じましたし。
でも、そのあたりにあったコロナ禍も、私にとってはありがたい時間だったというか、そこもターニングポイントですね。
――AKB48としての活動はほぼストップしていましたよね。
倉野尾 実はコロナ禍の前も辞めようと思っていて。調子が良くなくて、お仕事を調整させてもらったり、1週間休みをもらったり。
――そんな時期があったんですね。
倉野尾 それまでずっと熊本から通っていたので、お仕事が続くときは東京でホテル暮らしをしていたんです。でもコロナ禍はお仕事がないから、1ヶ月実家に帰って。
そんな長く家にいたのは加入以来初めてで、ほぼ休みだから仕事のことも忘れて、自分が好きなことをとにかくやれました。
好きな時間に起きて、好きな時間に寝る生活をしていたら全部リセットされて、気持ちも楽になったんですけど、同時に「こんな自分もう嫌だ!」とも感じて。
――ずっと欲しかった休みが取れたのに。
倉野尾 1回立ち止まって、それまでのことを整理して、今後を考えたときに「私は熊本の実家にいるだけじゃダメだな」と思ったんです。親に泣きながら「東京に行きます」って宣言しました。
お仕事もリモートや配信だったので、ずっと実家にいてよかったけど、何故か「ここにいたくない」と思ったんです。「東京のほうが危ないから、こっちにいなさい」みたいな感じだったけど、「もうここにいられないです」と言って出ていきました。(後編に続く)
【連載「なんで令和にAKB48?」は木曜日更新。総監督を引き受けた理由、東京ドームへの覚悟などを語る後編は10月9日公開!】
●AKB48
2005年(平成17年)12月8日、秋葉原のAKB48劇場で1期生お披露目。
2022年(令和4年)5月4日に17期生、2023年4月9日に18期生、2024年3月17日に19期生、12月20日に20期生がデビュー。
OGメンバーも多数登場する「AKB48 20th Year Live Tour 2025 in 日本武道館 20周年記念コンサート」が12月4日~7日開催!!
最新情報は公式ホームページをチェック
●倉野尾成美(くらのお・なるみ)
2000年11月8日 熊本県出身
身長152cm
Nickname=なる
公式X【@Kuranoo_Narumi_】
公式Instagram【@noochan_1108】
取材・文/関根弘康 撮影/撮影/篠田直人
記事提供元:週プレNEWS
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