【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】G2P-Japanアメリカツアー2024~ハミルトン、ダーラム、チャペルヒル(2)

ロッキーマウンテン研究所のエントランスにて。私、北海道大学のM、ロッキーマウンテン研究所のO先生。深夜に空港まで迎えに来ていただいたり、O先生には送迎で何度もお世話になった。ありがとうございました!連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第130話
ロッキーマウンテン研究所の訪問時、そこの研究者たちとの間で持ち切りだったのが、「ウシから見つかったH5N1鳥インフルエンザウイルス」。このウイルスはいったい何なのか? ヒトへのパンデミックにつながる可能性はあるのか?
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■最大の関心事、ウシから見つかったH5N1鳥インフルエンザこの訪米のとき、世界的に関心が向けられていたウイルスがある。「次のパンデミック」はもしかしたらこのウイルスによって引き起こされるのではないか?? と危惧されていたウイルスである。
ロッキーマウンテン研究所の訪問でも、そこの研究者たちとの話題の中心は、もっぱらこのウイルスに関することだった。それは、「ウシから見つかった、H5N1鳥インフルエンザウイルス」である。
すこし解説をすると、まず、「H5N1鳥インフルエンザウイルス」とは、ニワトリに感染すると瞬く間に感染が広がり、かつ高い病原性を示し、養鶏場のニワトリたちが全滅してしまうようなおそろしいウイルスである。
これが養鶏場で働く人に感染し、死に至らしめることもある。しかしこのウイルスは、まだ充分にヒトに適応できていない。そのため、ヒトからヒトに感染を広げることはできない。であるがゆえに、このウイルスがヒトに適応してしまうことこそが、「次のパンデミック」の最大のリスクだ、と懸念されている。
2023年あたりから、アザラシやアシカ、イルカなどの水生哺乳類の大量の遺体が、アルゼンチンやイギリスの海岸で確認されるようになった。その原因を調べると、なんとH5N1鳥インフルエンザウイルスに感染していたことが確認されたのだ。
つまりこのウイルスは、鳥類から哺乳類へと、感染・流行の範囲を広げる兆候が見え始めた、とも言えるのである。
人間まで感染の範囲を広げてしまうのも時間の問題か――ともいわれたのだが、2025年7月現在、幸いにもまだそこに至ってはいない。しかしその代わり、というわけではないが、やはりウイルスは、想像だにしない挙動を見せる。なんと今度は、ウシで感染を広げ始めたのだ。
2024年3月25日、アメリカのテキサス州、カンザス州、そしてニューメキシコ州の乳牛から、H5N1鳥インフルエンザウイルスの感染が初めて報告された。
それが発覚した理由は、人間がインフルエンザに感染したときのように、ウシが咳をしたり、熱を出したから、というわけではない。搾乳される牛乳の量が少なくなり、おかしいと思ってその原因を調べてみたところ、牛乳の中から、H5N1鳥インフルエンザウイルスが見つかったのだ。
■ウイルスが引き起こす想定外の事態の連続その後、このウイルスは、瞬く間にアメリカのさまざまな州の牧場で感染が確認され、大変な騒ぎとなった。
「ウシが鳥インフルエンザに感染」というややこしい表記になっているのはこのためで、英語では「bovine H5N1(『bovine』は、英語で『牛の』という形容詞)」と呼ばれたりしている。
では、このウイルスがヒトのパンデミックの原因となってしまうのか? 2024年、主に酪農場で働く人を中心に、66人の感染が確認されているが、深刻な症状は報告されておらず、また、ヒトからヒトへの感染も確認されていない。
ところが、感染した牛から取られた牛乳の中に含まれるウイルスを調べたところ、感染力を保っていることが判明した。
インフルエンザウイルスは一般的に、70%以上のアルコールや、120℃以上の高温で20分以上処理することによって、その感染力を失わせることができる。
ちなみに、日本乳業協会のウェブサイトによると、市場に出回る牛乳は、①63~65℃で30分間、②72℃以上で15秒間、③120~150℃で1~3秒間、加熱処理することで殺菌されているという。
東京大学・河岡義裕先生らの研究成果によると、ウイルスが混入した牛乳に、上記の①と②を施しても、ウイルスは感染力を失わず、この方法で殺菌した牛乳を実験マウスに飲ませると、感染が成立したという(ちなみに、この出張から帰国後すぐに、ロッキーマウンテン研究所のヴィンセントからも、同じような研究成果が発表された)。
そして、③がこのウイルスの感染力に与える効果はまだ明らかではないし、牛乳を飲んだことで人間が感染してしまった例は報告されていない。また、日本で市販されている牛乳の9割は、この③の方法で殺菌されているという。そしてそもそも、2025年7月現在、日本の乳牛からは、このウイルスはまだ見つかっていない。
それにしても、「H5N1鳥インフルエンザウイルスが、牛乳に混入して人間社会に拡散される可能性」など、いったい誰が予想できただろうか?
「未知のウイルスの出現による社会の混乱」は、新型コロナパンデミックを経験した読者のみなさんには説明不要だろう。特にそれが「未知」である場合、つまり、出現して間もないうちは、情報が錯綜し、混乱した状態に陥る。
これは、この「ウシから見つかった、H5N1鳥インフルエンザウイルス」でも同様のようだ。「瞬く間にアメリカのさまざまな州の牧場で感染が確認された」と先ほど述べたが、どの農場でどのくらい感染が広がっているのか、また、どのようにして農場から農場へと感染が広がったのか、そうした情報はほとんど公表されていないのだという。
その理由は、「農場の乳牛からインフルエンザウイルスが見つかった場合の対応」がルール化されていないからだ。これが例えば、口蹄疫ウイルス(牛や豚などの家畜や野生動物に感染する伝染力の高いウイルス)の場合、それが見つかった場合の対応はすべて明文化され、ルールが法律で定められている。
しかし、インフルエンザウイルスが見つかった場合の対応については、何も決められていない。それまでにはそのようなことは起きてこなかったからだ。つまり、酪農家の立場としては、それを報告する義務はない、ということになる。
「自分の農場のウシから鳥インフルエンザウイルスが見つかった!」という事実は、風評被害という「スティグマ(詳しくは9話、91話)」を招く。そうなると、いくらそれが科学的に重要な情報であったとしても、その公開が法律で義務づけられていない以上、酪農家がそれを積極的に公表するメリットはない。
そのような理由で、このウイルスの流行状況については、情報が集約されていないのだという(2025年7月現在)。
■アウトブレイクの最先端に挑む研究所前話に登場した、アンドレアやヴィンセントらを擁するロッキーマウンテン研究所は、BSL4施設を持ち、さまざまな高病原性ウイルスの研究実績を持つ研究施設である。
それはこの「ウシから見つかった、H5N1鳥インフルエンザウイルス」についても例外ではなく、私たちが訪問した2024年6月の時点で、すでにさまざまなことを明らかにしていた。
乳牛や人間とは違って、ネズミやネコでは重篤な症状を示すこと、サルでの感染実験を始めていることなど、当時はまだ公表されていない新鮮ホヤホヤの情報を教えてくれた。
「科学に基づいた情報をリアルタイムに社会に還元する」。これは私の主宰する研究コンソーシアムG2P-Japanが、新興・再興感染症に対峙するにあたって標榜しているスローガンであるが、この「ウシから見つかった、H5N1鳥インフルエンザウイルス」についてはまだ何も取り組めていない。
その大きな理由のひとつは、このウイルスが、2025年7月の時点で、まだ日本での感染例が確認されていないからだ。
ロッキーマウンテン研究所という世界最先端のウイルス研究所を、「ウシから見つかった、H5N1鳥インフルエンザウイルス」の騒動の渦中に訪問できたことは、「感染症の課題にリアルタイムに取り組む」という、私たちが標榜するスローガンを目の当たりにすることができたことも意味していた。
ロッキーマウンテン研究所とはこれから、「ASPIRE(27話)」の国際共同研究で、連携を深めていくことになる。一緒にどんなことができて、それがどのように展開していくのか、今から楽しみである。
※7月30日配信の(3)に続く
文・写真/佐藤 佳
記事提供元:週プレNEWS
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