【岡山の"リアル・ロッキー" 守安竜也のボクシング人生③】「具志堅用高を超える200年に一人の逸材」と呼ばれた天才からも称賛された根性ボクシング
【連載・岡山のリアル・ロッキー 倉敷守安ボクシングジム会長・守安竜也(りゅうや)のボクシング人生】(5回連載/第3回)
1年前の2024年1月23日――。岡山のボクシングジムから初の世界チャンピオンが誕生した。無敗の王者、アルテム・ダラキアン(ウクライナ)を下してWBA世界フライ級王座に就いたのはユーリ阿久井政悟。今回の偉業は地方ジムから世界を目指すボクサーにも大きな希望を与えた。
阿久井の所属は倉敷守安ボクシングジム。元日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王者の守安竜也(りゅうや)が38年前、33歳で始めたジムだ。守安は71歳になったいまも会長、トレーナー、セコンドの3役をこなし選手育成に励んでいる。現役時代は日本王座を3度防衛し世界3位にもなった守安。しかし通算戦績は28戦12勝(6KO)16敗――。そこには地方の弱小ジム所属ゆえに辛酸を舐めた歴史があり、それでも夢を叶えた「リアル・ロッキー」と呼べるような物語があった。
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バトルホーク風間に挑んだ日本タイトル初挑戦から1年後ーー。
28歳になった守安は2階級上のジュニアウェルター級で2度目となる日本タイトル挑戦のチャンスをつかんだ。WBA世界同級5位の日本王者、福本栄一(SB石丸)陣営から試合の申し出が届いたのだ。
名もなき雑草のような守安とは違い、福本は中央大学時代、全日本ライトウェルター級1位にもなったアマエリートで、世界を大いに期待されてプロ転向した。
福本は1979年9月24日、畠山昇(野口)を4回KOで倒して日本ジュニアウェルター級王座に就いた。以降、王座陥落してもそのたびに返り咲き、守安との対戦時は3度目の日本王座に就いて迎えた初防衛戦だった。当時戦績は19戦15勝(10KO)4敗。好不調の波はあるものの勢いに乗った時の強さは凄まじく、両者のキャリアを鑑みても、誰もがチャンピオン福本の防衛を信じて疑わなかった。
「平沼会長から『福本とタイトルマッチが決まった』と聞かされた時は、『また格上で、しかも相手の地元開催やし、かなり厳しい試合になる。もしかしたら簡単にやられてしまうんかな』と思いおったです」
日本タイトルマッチとは言え、世界5位の福本にとってはあくまで世界挑戦を見据えた調整試合。負けは微塵も考えていなかった日がいない。しかし、"岡山の咬ませ犬"は圧倒的不利という大方の予想を覆してエリートに牙を剥き、思い切り咬みついた。
1981(昭和56)年8月27日。試合会場は千葉県・市原市臨海体育館。守安は直前まで普段通り農協で働き、試合前日に岡山倉敷から東京入りして大一番に備えた。
「でも試合当日は、ものすごく調子が良かったんです。試合は夜からでしたが、午前中の計量後に珍しく、30分ぐっすり昼寝ができましてね。普段の試合前は気持ちが高ぶって眠くならないのに。技術は相手のほうがあるから、とにかく休まずパンチを打ち続けたんですわ。そしたら後半、福本のスタミナが切れたんです」
当時の計量は現在のように前日ではなく、当日に行われた。ジュニアウェルター級のリミット63.5kgに対して、当日、朝起きた時点での守安の体重は61.5kg。じつに2kgもアンダーしていた。
「飯は思い切り食べて力を養い、試合に向けて無理な減量はしない」というのが平沼ジムの方針だった。とはいえ、さすがに計量当日朝の時点で2kgアンダーは軽過ぎた。守安は、逆に体重を増やさなければジュニアウェルター級で試合に出場できないため、普段以上にしっかり朝食を摂り、体重を増やして計量に備えた。これが嬉しい誤算となり、お腹が十分満たされたおかげで眠気に誘われ、計量終了後は緊張することなく体調を整えることが出来た。
■根性の差が明暗分けた日本タイトルマッチ初回、守安はこまかな左リードジャブから左右のストレートでプレッシャーをかけるが、逆にカウンターで左右のアッパーを浴びた。2回も福本優勢。守安は右アッパーを打った際、かわされて体が半回転するほど大きな空振りをして、場内は満場失笑の声が響いた。それでもお構いなしに猛追。勢い余って福本の首を抑えて右フックを放ってしまい、主審からは減点1を告げられた。
守安は以降も、パンチは当たらなくとも前進し続けた。華麗なフットワークやテクニックはない。スピードもなければ、相手を一発で倒せるパンチもない。武器は無尽蔵のスタミナと手数の多さ。ガードをがっちり固めて、あとはとにかくがむしゃらに攻め続ける。令和の現代ではもはや死語となった「根性」という言葉が、守安のボクシングを表現する上で最も当てはまった。
試合が進むにつれて、守安は福本をロープまで追い詰める場面が多くなった。クリンチで逃れる福本の戦い方を不甲斐なく感じたのか、会場からは野次も飛び始めた。
8回、スタミナの切れた福本に左右のフックを放つと綺麗にヒット。動きの止まった様子を見てレフリーは戦意喪失と判断してダウン宣告。試合再開後はさらに圧力を強めて2度もロープの外に押し出した。そして9回、運命の時を迎えた。
「バチッと一発、右フックが決まったんですよ。そしたら福本は、ひょろひょろっとしたんです」
足元のおぼつかなくなった福本。守安はとどめを刺すとばかりにラッシュをかけると、レフリーが間に入って両手を振った。
9回40秒KO勝利――。
守安は、本人さえ予想できなかった大番狂わせを演じて見せた。それは岡山にあるボクシングジム所属ボクサーとして、初の日本チャンピオン誕生の瞬間だった。
日本ジュニアウェルター級タイトルマッチで福本栄一(SB石丸)に挑戦して9回KO勝利し、王座獲得した守安。誰もが驚く大番狂わせを演じた
「山手村に戻るとみな大騒ぎでした。職場ではプロボクサーであることは内緒にしていましたが、チャンピオンになって知れ渡りました。後援会も出来てサイン会を開いてもらったりもしました。いまの(ユーリ)阿久井みたいなもんですわ。阿久井よりもっと、テレビに出よったです」
運動は苦手で取り柄もない。夢中になれる何かを求めて、20歳でボクシングを始めた農協勤めの若者は28歳でおらが村の英雄になり、WBA世界ジュニアウェルター級ランキングも5位に入った。ローカルのテレビコマーシャルにも起用された守安は「農協のチャンプ」と呼ばれ、地元では有名人としてもてはやされた。
わずか1ヶ月半後に挑んだ、1981(昭和56)年10月12日の初防衛戦。守安は日本ボクシングの聖地、東京・後楽園ホールで、元同級王者、現1位の杉谷実(協栄)と対戦した。
守安は戦況不利という大方の予想を覆して判定勝利。翌1982(昭和57)年2月25日に行われた2度目の防衛戦では同級4位、大久保克弘(三迫)相手に5回KO勝利。さらに同年5月26日、王座返り咲きを目指す福本栄一を初めて地元岡山(岡山武道館)に迎えて、3度目の防衛戦が開催された。
試合は雪辱をはたすために岡山まで乗り込んできた福本が落ち着いた試合運びを見せた。5回終了時点では福本優勢。前回の守安戦も含めて、日本王座から3度陥落した経験を持つ福本は、過去2度はいずれも再戦に勝利して王座に返り咲いていた。
福本は3度目の日本王座返り咲きを狙う守安戦でも、残り2回を残した8回終了時点では、接戦ながらポイントではリードしていた。しかし、守安は地元の声援に後押しされるように反撃開始。最後の2回、9、10回にポイントを奪い返し、「98-96、99-96、98-98」という三者三様、2対0という僅差の判定勝利で3度目の防衛に成功した。
初防衛戦で元同級王者の杉谷実(協栄)に判定勝利して初防衛に成功
2度目の防衛戦で大久保克弘(三迫)に5回KO勝利
日本王者まで這い上がった咬ませ犬は、3度防衛に成功して本来の実力を証明して見せ、世界ランキングも最高3位まで上昇した。
ボクシングを始めた頃は、夢見ることさえ出来なかった「世界」という大舞台――。
ランキングだけで考えれば、守安はいつ世界挑戦のチャンスを得てもおかしくない位置まで上り詰めた。それはまるで、「冴えない名もなきボクサーがチャンスを掴んで奇跡を起こす」というテーマを描いたシルヴェスター・スタローン脚本主演の映画、『ロッキー』(1976年公開)を彷彿させる物語にも思えた。
■「ガードだけならプライヤー以上」と200年に一人の逸材も称賛1982(昭和57)年11月2日。守安の4度目の防衛戦は亀田昭雄(協栄)に決まった。サウスポースタイルの亀田は、所属した協栄ジムの金平正紀会長から「具志堅用高が100年に一人の天才ボクサーならば、亀田は200年に一人の逸材」と期待されてアマチュアからプロ転向した。いわば特上級の「金の卵」だった。
期待にそぐわぬ活躍を見せた亀田は1978(昭和53)年4月28日、辻本章次(ヨネクラ)を5RKOで倒して日本ウェルター級王座に付いた。ちなみに亀田は、辻本戦も含めて7戦連続KO勝利という圧倒的な強さで日本タイトルを獲得した。そして同級日本王座を8度防衛したのちに返上。守安戦の4ヶ月前、階級をひとつ下げてWBA世界ジュニアウェルター級王者アーロン・プライヤー(アメリカ)と、敵地で拳を交えていた。
荒鷲(The Hawk)という愛称で親しまれたプライヤーは、生涯戦績40勝39勝(35KO)1敗。のちにボクシング殿堂入りも果たすなど、野生味溢れたファイトスタイルで人気を博した、当時同階級を代表する世界的なスターだった。そんなプライヤーに、17戦全勝(14KO)という実績を引っ提げて渡米した亀田は、真っ向勝負を挑んで初回にダウンも奪った。2回以降は目を覚ました荒鷲に圧倒されて6回TKO負けしたものの、本場アメリカのボクシングファンにも強烈なインパクトを残した。
守安と対戦時の戦績は、プライヤーに敗れた1敗のみの18戦17勝(14KO)1敗。WBA世界同級5位にランキングされていた亀田は世界再挑戦の足がかりとして、ジュニアウェルター級で日本タイトル2階級制覇を目指していた。
対する同級日本王者守安の戦績は、20戦12勝(6KO)13敗。一時は大きく負け越していた戦績も、亀田に勝てば五分に戻せる所まで勝ち星を積み上げ、WBA世界同級ランキングも9位に入っていた。
「現役世界ランカー同士による日本タイトルマッチ」という豪華な組み合わせ。しかしファンの大半は、「守安が4度目の防衛に成功するか」よりも、「負けはしたものの、あのプライヤーからダウンを奪った亀田が再起戦でどんな勝ち方をするか」に期待を寄せていた。
試合開始を待つ間、応援に駆けつけた大勢のファンに立ったまま微笑みかけて余裕を見せる亀田に対して、守安は椅子に腰をおろして深呼吸を繰り返し瞑想していた。
後楽園ホールに試合開始を告げる甲高い鐘の音が鳴り響いた。
初回、守安はいつものように両腕でがっちりとガードを固め、滲み寄るようにして前進。そしてやはりいつものように、がむしゃらにパンチを打ちまくった。しかし「200年に一人の逸材」と期待された天才は軽快なステップで守安の攻撃をことごとくかわし、上下に振り分けた鋭いパンチを次々と叩き込んできた。平沼ジムにはサウスポーはいなかったため、オーソドックススタイルの練習生を左構えにして亀田対策をして備えた守安だったが、いきなり主導権を握られてしまった。
「余計な話じゃけど、試合前の練習で右肩を怪我してしまい万全じゃなかった。右腕はほとんど使えん。ただそれを差し引いても、テクニックも、スピードも、パワーも、どれをとっても亀田のほうが圧倒的に上じゃった。いま振り返って考えてみても、とても勝てるような相手じゃなかった。ただ力いっぱい戦いましたので、悔いは残りませんでした」
2回以降も、守安はボクシングのレッスンを受けるように翻弄された。5回、亀田は、シュガー・レイ・レナードばりに左腕をぐるぐると回してボディーアッパーを決めるパフォーマンスを見せて会場を沸かせた。もはや勝負は決まったような展開。あとはいつ守安をキャンバスに沈めるかに誰もが注目した。
6回、7回、8回......。しかし、亀田の「いつ」はなかなか訪れない。守安はどれだけ被弾してもチャンピオンの意地を見せるように前進を止めない。勝負はついに最終10回に入った。
最終回も相変わらず亀田優勢の展開が続いた。守安も、試合終了まで1分を切った2分12秒、もみ合いからの離れ際、思い切り振り回した左フックを亀田の顔面に浴びせてぐらつかせて、日本王者の意地を見せた。
ボディを効かされて苦しみながらも無尽蔵のスタミナと根性で乗り越えた守安は結局、「200年に一人の逸材」から一度もダウンを奪われることなく、最後まで戦い続けた。
試合は3人のジャッジともに「100-90」というフルマークの3-0で、亀田の判定勝利。しかし、守安は亀田の応援に駆けつけたはずのファンからも惜しみない拍手を贈られ、「世界再挑戦のためにも絶対にKOで勝利する」と意気込んでいた亀田も、試合後の記者の質問に対して「ガードだけならプライヤー以上だった」と答えて健闘を讃えた。
■国内では決まらない再起戦。対戦相手を求めて韓国へ守安は1年2ヵ月間守り続けた日本王座を4度目の防衛戦で明け渡した。すると再起を目指すも以前と同じように、試合が決まらない状態になってしまった。
ジュニアウェルター級では国内最強の亀田にも怯(ひる)まず立ち向かうなどあまりにもやっかいな相手。咬ませ犬と呼ぶには強すぎる。まわりからそうみなされた守安は、どのジムからも敬遠されてしまったのだ。
日本国内では試合の決まらない守安は、再起戦の舞台を韓国に求めた。1980年代の韓国ボクシング界は活況期で、当時多くの日本人ボクサーが現地まで足を運んで試合をしていた。
守安が亀田に敗れた1982年11月時点での、アジアとオセアニア地域を統括する東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)のランキングを調べてみた。空位のライト級とヘビー級を除いた全12階級王者のうち、11人が韓国人と独占状態。日本人ボクサーでは、当時バンタム級で世界に最も近い男と言われていた村田英次郎(金子)が唯一、東洋太平洋タイトルを保持していた。
1983年(昭和58)年2月5日。守安は韓国テジョン(大田忠武体育館)で韓国ライト級1位、林弘圭(イム・ホンギ)とウェルター級契約で対戦が決まった。林の当時の戦績は、18戦17勝(12KO)1敗。林は韓国ライト級王者だったが、兵役の都合でタイトルを返上して同試合を迎えていた。
前日本王者で現日本2位、一時は世界3位にもなった守安は、日本ではどのジムからも敬遠された。しかし、明日の世界を目指す若き有望株が多く揃う活況期の韓国では、願ったり叶ったりの咬ませ犬だった。
守安は、韓国前ライト級前王者、現1位の林に勝利を確信したものの大差の判定負け。再起戦を勝利で飾ることは出来なかった。
2ヶ月後の1983(昭和58)年4月23日。今度はソウルで26戦全勝22KOという強打を誇るさらなる強敵、WBA世界ジュニアウェルター級3位、李相鎬(イ・サンホ)と対戦が決まった。
勝てばふたたび世界挑戦の道も開けるかもしれない。そんな一縷(いちる)の望みをかけて元世界3位の守安は、現世界3位のコリアンファイターに挑んだ。
「1回にバッティングされて、額あたりがブワーッと腫れてしまってね、血が出りゃいいんですけど、出んのです。痛いし、すぐ試合をやめりゃよかったんじゃけど。5回までは我慢したんですが目も塞がって、最後は倒された自分の姿を見て、平沼会長がタオルをほった(投げた)んやと思います」
結果は5回1分45秒KO負け。当時の試合について調べるうち、ボクシングマガジン1983年7月号に掲載された小さな記事を見つけた。記事よれば、5回に右アッパーであごを痛打されてダウンした守安は、試合終了後もしばらく起き上がることができなかったそうだ。
同ボクシングマガジンには同じジュニアウェルター級、14勝全勝13KOの「浪速のロッキー」こと23歳の赤井英和が、ブルース・カリー(アメリカ)の持つWBC世界同級王座に挑戦することを特集した記事が、見開きで掲載されていた。
●守安竜也(もりやす・りゅうや)
倉敷守安ボクシングジム会長。1953(昭和28)年6月26日、岡山県都窪(つくぼ)郡山手村(現在の総社市)生まれ。1974(昭和49)年11月プロデビュー。1981年8月、日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王座を獲得して3度防衛。WBA世界ジュニアウェルター級ランキングは最高3位。通算戦績12勝(6KO)16敗。30歳で引退した後、1987(昭和62)年4月、33歳の時にジム開設。現在プロボクサーはWBA世界フライ級王者のユーリ阿久井政悟、元日本スーパーフライ級ユース王者の神崎靖浩などが所属。過去の主な所属ボクサーは、元東洋太平洋ミニマム級王者のウルフ時光、同スーパーフェザー級暫定王者の藤田和典など。
取材・文・撮影/会津泰成
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