400年企業「綿半」愛される商品づくり:読んで分かる「カンブリア宮殿」
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創業は関ケ原の戦いの前~長野県民おなじみの「スーパーセンター」
長野・中野市の「綿半スーパーセンター」で売っているのは手袋にDIY用の木材。しいたけの菌を埋め込んだ「ホダ木」という木やりんごの出荷専用の段ボールといった長野らしい商品もある。漬物桶の専用コーナーも。長野では家庭で漬けるのが一般的だという。
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ただのホームセンターではない。店の奥へ進んでみると、そこには食品売り場があった。
客で大にぎわいの秘密は価格の安さにある。白菜(4分の1)は会員価格で104円。都内のスーパーより4割ほど安い。鳥のむね肉は会員価格100グラム51円と、都内の6割ほどだ。
もう一つ人気の理由は品ぞろえの豊富さ。きのこのコーナーでは、定番のしいたけやぶなしめじのほか、東京ではあまり見かけないひらたけなど、珍しいきのこも豊富に取りそろえている。
綿半が長野県を中心に23店舗を展開する「スーパーセンター」は「スーパーマーケット」と「ホームセンター」を合体させた業態の店。長野県民にとっては古くからおなじみだ。
綿半の創業は1598年、関ケ原の戦いの2年前から400年以上続く長寿企業だ。
古くてお堅いイメージだが、PB商品は斬新だ。ネーミングも今っぽいのは『社長に内緒で』シリーズ。「社長に内緒できのこを入れすぎた」というパスタソース(323円)に、社長に内緒で玉ねぎを入れすぎたドレッシング(200ミリリットル、430円)も。
「社長に内緒で玉ねぎを入れすぎた玉ねぎファンに贈るシャリシャリ玉ドレ」の製造を請け負う長野・松本市の「丸正醸造」に行ってみると、「綿半さんは玉ねぎを通常より20キロ多く使っています」と言う。通常の約1.5倍の玉ねぎをオリーブオイルや地元産の醤油などで味付け。玉ねぎのシャリシャリの食感が人気だ。
発売当初、自主回収する羽目になった「社長に内緒」だからこそのエピソードがある。
「生の玉ねぎを使っているのですが、知らなかった社長が買って帰って開けたら、熟成して噴き出してしまったんです」(綿半パートナーズ・田原尚子)
400年以上前に綿の栽培から始まったという綿半は、創業の地・長野を拠点に、商いを続けている。店員の背中、買い物かご……綿半の店内には「合」という文字があふれている。
「400年以上前から使われているマークです。武士の時代からずっと使ってきたので、大事に使わせていただいています」と言うのは、綿半ホールディングス社長・野原勇(58)だ。
「合」の文字は創業当初からシンボルだった。このシンボルをもとに、野原が考え出した新たな経営理念が、力を合わせ、分かち合い、響き合う「合才の精神」だ。
「それぞれが持っている違った能力を合わせ持って、新しいものをつくろうという考え方です」(野原)
「合才の精神」で業績も好調。グループ全体の売上高は約1280億円。野原が社長に就任してからの9年間で約1.5倍に拡大した。
「合才の精神」とは?~鮮度抜群で安い魚&一流シェフの総菜
〇合才の精神1~「ヒントは観賞魚」
綿半の店内ではさまざまな場所で合才の精神がいかされている。
魚売り場のいけすでは、大きなタイや高級魚のシマアジなど、さまざまな魚が泳いでいる。その周りにはいつも子どもたちが。海がない長野県で、このいけすは水族館のように親しまれている。
魚は頼めばその場でさばいたり、刺し身などにしてくれる。長野では、新鮮な魚はなかなか手に入らなかった。綿半は、仕入れから運送まですべて自社で行うことにより、鮮度だけでなく低価格も実現した。
いけす内の海水を冷やすための冷却装置は独自に開発、海水の温度を一定に保っている。
「海水を16~18度以内に抑えておかないと、魚のストレスがたまって、おいしくなくなります」(綿半ホームエイド取締役・愛田真也)
ここに「合才の精神」が生かされている。店内のペット売り場では鑑賞魚も販売。冷却装置は鑑賞魚を飼育するノウハウを応用したものだ。人工海水をつくるための塩も、ペット売り場で使っているものと同じ。各売り場のノウハウを組み合わせることで、新たな売り場ができる。これこそ合才の精神のたまものだ。
〇合才の精神2~「一流シェフがつくる総菜」
綿半のスーパーセンターのもう一つの目玉が総菜。ショーケースに並んでいたのは大きなエビを使った「エビマヨ」に、バーベキューソースで味付けした豚の「スペアリブ」、そして鶏肉をチリソースで炒めた「鶏チリ」……。目指しているのはデパ地下の総菜だ。
これらを厨房で作っていたのは、一流ホテルやレストランで腕を振るってきたシェフたちだ。コロナ禍で飲食業界は大きな打撃を受け、多くの腕のいい料理人が職を失った。そこで野原は「合才の精神」でそういうシェフ8人を雇い入れた。
「コロナで働く場所がないということもあって、いい人たちが来てくださいました。一気にレベルアップした」(野原)
イタリアンのシェフ、成田圭宏もその一人。長野駅前で約20年レストランを経営していたが、コロナで閉店を余儀なくされた。
「厳しかったですね。アルバイトや社員を休ませて一人でやったこともあったけど、どうにもダメでした」(成田)
そこで綿半で総菜づくりという新たな道を歩むことに決めたのだ。
成田が得意なのはデミグラスソースを使った料理。約20年かけて培った料理の腕で総菜づくりに挑んでいる。「ハンバーグドリア」(604円)には、成田自慢のデミグラスソースが中にもたっぷり入っている。
こうした総菜で客層が広がり、店全体の売り上げにも貢献している。
「中華、和食、洋食それぞれ得意な人、いろいろな人がいる。パートさんにも作り方を教えることで、違うものがくっついて新しい価値ができている」(野原)
異なる才能を合わせて新しいものをつくる「合才の精神」で、綿半は快進撃を続けている。
大胆な業態転換でサバイバル~意外なトップシェアがあった
綿半創業の地、飯田市は長野県の南に位置する。周囲を山に囲まれた人口約9万の町だ。
400年以上続くという正念寺を訪ねると、約300年前の戸籍に当たる「過去帳」という資料が残されていた。
中を見せてもらうと、江戸時代に綿半の当主だった「半三郎」という名前が書かれていた。
綿半の創業は1598年。創業したのは織田信長の家臣だった中谷勘右衛門という武士だ。本能寺の変で信長が自害すると、身の危険を感じて信州・飯田に逃れた。
飯田に住みついた勘右衛門は出身地の伊勢で盛んだった綿花栽培を開始。後の当主は代々「綿屋半三郎」と名乗るようになった。これが綿半という屋号の由来だ。
「綿を持ってきて栽培の技術をこちらの農家に伝えて、非常にこの地域に貢献したと伝え聞いています」(正念寺住職・白鳥聡さん)
幕末、ペリーの来航で開国すると、外国製の安い綿が国内に流入し、大打撃を受けた。そこで目をつけたのが金物。海外から鍋などを仕入れ、飯田で売る金物商に業態転換した。
日曜大工がブームとなった1970年代には、今度はホームセンターへ業態転換する。
「400年続いていると、世の中が変わってくる。地域で必要とされる事業は順番にやっていくという感じです」(野原)
野原が綿半に入社したのは2008年。アメリカの情報通信会社の日本法人の社長も務めたが、綿半創業家の娘婿だったことから、上場準備のため綿半に招かれた。
だが入社した2008年、リーマンショックが綿半を襲う。当時、売り上げの7割を占めていた建設部門が大打撃を受け、3期連続の赤字に陥った。
「俗にいう要管理先。銀行が新しい融資はできないという状態に追い込まれました」(野原)
そこで力を入れたのが大型立体駐車場の建設だった。2023年に大阪・門真市の「ららぽーと門真・三井アウトレットパーク大阪門真」に作った駐車場は国内最大級で3800台の駐車が可能。場内は明るくて見やすいのが特徴だ。
「開口部が広い駐車場です。明るく見通しがききやすいのがメリットです」(綿半ソリューションズ・石井秀和)
綿半の大型駐車場は、空港や商業施設など全国に広がり、今や国内トップシェアに成長している。
現在の綿半は、小売り、建設、貿易の3つの事業が柱。野原が社長になる前は、建設部門の売り上げが7割を占めていたが、いまでは小売りが6割と逆転。柔軟に業態を変化させる経営が400年続いた理由だ。
無垢材のおしゃれな一軒家~低価格実現の理由
綿半は住宅販売も始めている。
渡邉聡さん・恵さんが2023年に購入した綿半の家は、太い梁(はり)や床や天井がすべて無垢の木材。「木の中にいると落ち着きます」と言う。また、無垢の木材は断熱効果が高く、寒い冬でも快適だという。しかも、一般的な無垢材の注文住宅より2割ほど安かったとか。
家を作っているグループ企業、新潟・聖籠町の綿半林業の第一工場を訪ねると、屋根を作っていた。
「屋根パネルになります。断熱材と赤外線を跳ね返すための遮熱シートを組み込んでいます」(製造部門・吉田正明)
ここでは家の部材を、あらかじめある程度のパーツに組んでいる。通常は現場で貼るフローリング用の床材も、ここで大きな板の上に貼ってパーツ化。こうすれば、工場で作ったパーツを現場に運んで組み立てるだけですむ。
「大工さんが2日間、3日間かかる作業を半日で終わらせてしまいますので、人数が減らせることで、作業代が減った分、住宅としても価格が抑えられます」(吉田)
さらに綿半は、2024年から林業にも参入した。綿半が管理する長野県内の山林。将来的にはここで育った木を自社の住宅に使おうと考えている。山の斜面では植林も始めていた。
「植えるところから、最後に切って使うところまで、ワンストップでやっていこうと。ワンストップでやることによって、コストを下げていいものが提供できる。長野の林業を復活させたいと思っていますし、一つの使命と思っています」(綿半HD経営戦略室・小池淳)
テラピア、カモの血…~珍しい、新しいものへの欲求
「綿半スーパーセンター」の中に2024年、「ワールドマーケット」というコーナーができた。
「弊社の持っている海外との連携のノウハウをうまく関連付けながら、新しいものを作ろうというので、合才という意味でやっている」(野原)
棚には、綿半の貿易部門が輸入した世界各国の商品が並んでいる。
冷凍コーナーにあったのは、日本では見かけないテラピアというアフリカ原産の魚。ブラジルで定番のポークとチキンをミックスした生ソーセージも。
イスラム教徒向けのハラルマークがついた商品もある。
外国人向けにつくったコーナーだが、地元の人たちも喜んで買っていく。綿半での買い物の楽しみが一つ増えたようだ。
野原が手にしたのは、中国で鍋に使うというカモの血。
「さすがにカモの血は(食べたことがない)……あるんですね、そんなもの」(野原)
珍しい、新しいものへの欲求は綿半のDNAだ。
「時代、時代で、持ってきたり、外に持って行ったりの繰り返しを400年、続けているのかもしれません」(野原)
※価格は放送時の金額です。
~村上龍の編集後記~
2018年、創業420年を機に経営理念を「合才の精神」に変えた。織田信長の家臣・中谷勘右衛門が本能寺の変の後、長野県飯田市ではじめた「綿」の商いが源流。だが幕末の改革で安価な外国製の綿が国内に入ってきた。綿半は、江戸時代から農機具も扱っており、金物商に転換。鍋や釜の他、建設資材も入手し、建設業にも進出。地域への貢献が、重要な経営の軸。「地域へどう貢献するか」。野原さんの口癖だった。売上高約1200億は地域との共闘の証しだ。「合才」は事業間の理念だが、地域と培ってきた証でもある。
<出演者略歴>
野原勇(のはら・いさむ)1966年、東京都生まれ。1993年、フロリダ州タンパ大学大学院卒業。2002年、アクテルナ社長就任。2008年、綿半ホールディングス入社。2015年、社長就任。
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記事提供元:テレ東プラス
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