Preparing for the Next Pandemic: Evolution, Pathogenesis and Virology of Coronaviruses【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
イチオシスト

兵庫県・淡路島で開催した国際会議の集合写真。最前列中央に並ぶ4人、左から、南アフリカのアレックス・シガル(15話)、中国のユンロン(86話)、イギリスのラヴィ(56話など)、そして私の4人がオーガナイザーを務め、私がローカルオーガナイザーとしてこの会議を主催した。この会議は間違いなく、私の研究者人生のハイライトのひとつとなるだろう。
2024年12月。兵庫県の淡路島で、筆者が主催する国際会議が開催された。打診を受けたのは開催の約2年前。それからの間、会議の成功のために、各国のさまざまな研究者との出会いを重ね、ついにこの日を迎えた。2025年の連載最終回!
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【私が身につけたもの】私はこれまで、40余年を生きてきた。山形で18年、仙台で4年、京都で13年を過ごし、現在は東京に居を構える私が過去を振り返ったとき、自分でいちばん成長を感じるのは、「度胸」である。
この連載コラムでも何度か触れたことがあるが(7話、42話、63話など)、私の記憶の中にある「佐藤佳」という人間は、山形生まれの東北人気質で、内弁慶で、内向的な人物である。
近年の私を知る人からすると、もしかしたら、そのような印象はない(あるいは薄い)、という人の方が多いかもしれない。
これまでにそれほど強く意識したことはなかったが、私自身、私という人間にいちばん欠けていると感じていたのは、自信よりも経験よりも才能よりも、度胸だったのだと思う。今振り返ると、それを無意識に自覚していて、それを身につけるための活動をしてきたようにも思える。
【コールドスプリングハーバーアジア】アメリカ・ニューヨーク州にあるコールドスプリングハーバー研究所(Cold Spring Harbor Laboratory; CSHL)と、そこで開催される研究集会のことについては、この連載コラムでも何度か触れたことがある(52話など)。
――2023年1月。この支部組織である、中国の蘇州にある「コールドスプリングハーバーアジア」というところから、新型コロナに関する国際会議の主催についての打診を受けた。
それからすこし遡る、2022年の秋。私は、南アフリカのセントルシアというところで開催された新型コロナに関する研究集会に招待された(15話)。私はそこで、パンデミックの中で活躍した研究者たちがオンサイトに集まって、直に交流することの素晴らしさを身をもって感じていた。
――あのような空間を、日本で、私の手で作り出すことができたら?
南アフリカでの実体験と、中国からの打診を受けて、こんな気持ちが芽生えた私は、肚(はら)を決めて、「国際会議の主催」という、無謀とも言える依頼を受けることにした。
予定された会期は、2024年の年末。猶予は2年ほどもあった。
――それではこの2年間に、私はなにをすべきか?
これこそが、肚を決めてからの2年間の、私の秘めたるテーマとなった。
【国際会議を主催するためにすべきこと】すこし話は反れるが、ある日、日本人研究者たちとのあるウェブ会議に参加した。そしてその中で、ひとつ気づいたことがあった。私がある提案したとき、参加者からのコメントのほとんどが、「XXがあるからできない・難しい」という「できない理由探し」ばかりだったのである。
実現へのハードルがあるのはもちろんわかった上での提案である。それなのに、聞こえてくるのは「できない理由探し」ばかり。「どうやったら課題を解決できて、その企画を実現できるか?」という前向きな発想には至らない、後ろ向きなコメントばかりだったことに、私はすくなからぬショックを受けた。
そこからさらに拡大解釈をして、これはもしかしたら、このご時世、日本の社会全体に蔓延しているマインドなのかもしれない、とも感じた。誰にでも当てはまる、無難な「最小公約数」だけを安易に認める傾向。そして、それに迎合していないと不安になる傾向。
そして、「最大公倍数」になりそうな、「あたらしいなにか」を始めるためのチャレンジをしづらい空気感。そう考えると、現状維持のためだけに、忙しさを競うだけのゴールのないレースに終始しているようにしか見えないシーンが散見される。
話は戻って、私自身の知名度、英会話スキル、コミュニケーション能力、そして、度胸。そのどれをとっても、2023年初頭の私には、新型コロナに関する国際会議の主催などという大役を担うには力不足だっただろう。
しかし、この打診から私は、この会議を2年後に主催者として務め上げるために何をすべきかを逆算し、その実現のためにいろいろな努力を重ねた。これまでに重ねてきたたくさんの海外出張は、ある意味において、この国際会議を成功させるための布石だったとも言えるかもしれない。
この国際会議を成功させるために、いろいろな国を訪れ、会議に招待した研究者たちとの面談を重ねた。この連載コラムでも紹介してきたこれまでの「突撃訪問」の目的には、実はそのような意図も含まれていたのである。
具体的には、2022年10月にラヴィやアレックス・シガル、メラニーたちと南アフリカ(15話)で会ったのを皮切りに、翌2023年1月にはオリヴィエとフランス(40話)で、2月にはリンファとシンガポール(157話)で、9月にはメラニーとデービッドと軽井沢(14話の冒頭の写真はこの時のもの)で、11月にはマリアとクリスティアンとサウジアラビア(72話)で、12月にはヒンとレオと香港(78話)で話をした。
2024年に入っても逢瀬をめぐる旅は続いて、1月にはユンロンとラヴィと東京(86話)で、4月には再びラヴィと、そしてオリヴィエやメラニーらとドイツ(108話)で、その足でフォルカーとスイス(113話)で、6月にはラルフとアメリカ(132話)で(ちなみにラルフとは、2023年に仙台で初対面している(7話))、7月には再びラヴィとデービッドとイギリス(143話)で、9月にはエディーとオーストラリア(149話)で、10月には再びオリヴィエとフランス(153話)で、そして、11月には再びリンファとシンガポール(157話)で、この会議につながる面談を重ねた。
【淡路島にて】開催までの間に、実はトラブルもあった。153話で言及した「トラブル」は、いわゆる「陰謀論者」たちによる、この会議の開催を阻害するものだった。
それをどのように解決するか、私を含めた主催者側と、主催団体たるCSHLとの間での協議が続いた。最終的な方針が定まったのは、開催のおよそひと月前のことだ(153話)。
――日本にはあまり馴染みのない、「サンクスギビング」というビッグイベントを終えた翌週。この国際会議は、瀬戸内海に浮かぶ兵庫県の淡路島で幕を開けた。
ちなみに、今回のコラムのタイトルは、この国際会議に冠した名前である。淡路島の「淡路夢舞台国際会議場」に、世界の15の国と地域から、新型コロナ研究に携わる研究者たちが集まった。128人の参加者のうち、海外からの参加者は87人。G2P-Japanのコアメンバーたちも参加した。
少年期の私がよく読んでいた漫画のひとつに、『釣りキチ三平(矢口高雄・作)』がある(107話)。約10年間の連載の中で、主人公の三平少年は世界中を旅して、さまざまな人たちと釣りにいそしむ。
この物語の最終回では、それまでに出会った世界中の友人たちが、ある目的のために、国会議事堂前に一堂に会するシーンがある。最終回のクライマックスたるシーンであるが、この国際会議が始まったときに私は、『釣りキチ三平』のこのシーンが不意にフラッシュバックした。
約2年間かけて、世界を駆け巡って会ってきた研究者たちが、一堂に会している。新型コロナパンデミックの中で活躍した世界中のトップサイエンティストたちが、私の声がけによって淡路島に集結し、それぞれの研究成果を発表し、対面で科学の議論に花を咲かせている。会議を主催した立場として、これに勝る喜びはなかった。
――この会議の開催中に、アメリカ合衆国下院の特別小委員会が、科学に基づいているとはとても思えない声明を出した。
そして、それに対するカウンターパンチのように、私たちの会議に参加していた科学雑誌『ネイチャー』のライターが、私たちの会議で発表された、科学に基づいた情報を『ネイチャー』で速報した。そしてそれらに呼応するように、SNSではそれにまつわる議論が紛糾した。
このコラムでも紹介したことがあるように、SNSは、新型コロナ研究を推進するために、世界中の研究コミュニティーをひとつにするために作動した装置のひとつだった(15話、38話、47話など)。それが現在では、社会の分断を促す装置になってしまっているのは皮肉なものだ。
――この会議の最後の夜、参加していた海外の研究者たちが、
「この集会こそが『コミュニティー』だ」
と私に声をかけてくれた。
この連載コラムでも触れたことがあるが(66話など)、「ムーブメント」というものは、確固たる新しい「シーン」を生み出すために欠かせないものだ。そして「ムーブメント」は、必要に駆られて動き始めるものなのかもしれない。この国際会議が、これから始まる「ムーブメント」のひとつのきっかけになるような、そんな手応えが手のひらに残った。
この会議に参加した世界中の人たちと握手を交わし、挨拶をし、お互いに感謝の念を述べて、再会を期してハグをした。
科学とはかくあるべきだと私は思う。同じ志を持って、ビジョンを共有して、直に会って対話をして、それを深めていく。
これこそが科学の姿勢であり、これからの世界に必要とされるものであると確信する。それに直に触れたこの数日間は、私の40余年の人生の中でも最高の時間のひとつとなった。
【歴史に残るイベントとして】このコラムという場であえて述べるべきことでもないのかもしれないが、この会議に参加してくれたすべての方々、開催に向けて尽力してくれたスタッフのみなさん、そして、この会議を盛り上げるために活動してくれた私のラボメンバーたちには、この場を借りて心からの感謝を述べたい。
あのような時間を共有できた、という記憶はもしかしたら、音楽フェスでその時間と場所を共有した、という感覚や文脈と似たようなものなのかもしれない。会を主催した立場にある者として、これに勝る喜びはない。
1969年にアメリカで開催された「ウッドストックフェスティバル(153話参照)」は、現代にも語り継がれるような、ロック史における歴史的なイベントとなった。ロック史におけるウッドストックのように、この淡路島での会議が、新型コロナ研究をめぐるこれからの新しいムーブメントの起点となるような手応えと気配をからだ全体で感じ、この会議は閉会した。
【来年に向けて:2025年公開コラムの結びとして】今から2年前、2023年の大晦日。紅白歌合戦のYOASOBIの「アイドル」のステージを目の当たりした私は、「2024年は世界に羽ばたかなければ」と心に刻んだ(84話)。そして、いろいろなことがあった2024年。「国際会議の主催」という大役を終えた私は、感慨と達成感に浸りながら残る時間を過ごし、2025年を迎えたのだった。
――この連載コラムの86話からこの話までがちょうど、2024年に、私の身に起きた出来事をまとめたものになる。パンデミックの中での活動の裏側を紹介してきた38話までのエピソードと比べても遜色ない、ダイナミックなエピソードに満ちていたのではないか、と私自身も読み返す度に思う。
今回のコラムの文章のほぼすべては、この国際会議が終わってから、2024年が終わるまでの間にしたためたものだ。
そして、このコラムの結びの文章を書いている2025年の年の瀬。2025年も、ダイナミックなイベントが目白押しだった。映画の舞台になった街に呼ばれたり、洞窟や市場に潜入したり、カオスな街に身を投じたり......。
翌2026年も、研究や出張、そしてその裏話について、これからもこのコラムの場で、その端々を伝えていけたらと思っています。
今年もご愛読ありがとうございました。2026年もよろしくお願いいたします。どうぞよいお年をお迎えください!
文・写真/佐藤 佳
記事提供元:週プレNEWS
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