ワルチング・マチルダ~メルボルン、ゴールドコースト、シドニー(4)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
イチオシスト

シドニーのハイドパークにあるキャプテン・クック像。オーストラリア大陸は、1770年にクックによって発見された。背面の台座には「DISCOVERED THIS TERRITORY 1770」と刻まれている。背後に見えるのはシドニータワー。
今回のオーストラリア編の冒頭で触れた「オーストラリアには『こんな国』というイメージが沸かない」、その理由はなんなのか? 30年前、筆者が13歳のときの交換留学の思い出を振り返る。
※(3)はこちらから
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スワンヒルの思い出私が初めてオーストラリアにやってきたのは30年前、私が13歳のときのこと。中1の3学期が終わり、中2に進級する年の春休みのことだった。
山形市(私の地元)が、オーストラリアの「スワンヒル」という姉妹都市との短期交換留学を希望する学生を募集していて、両親に促されるままにそれに応募することになった。私自身、外国に行くことを両親に懇願していたわけでもないし、外国に強い関心を持っていたわけでもない。
そこで断ってしまってもよかったのだが、その募集の対象は、「山形市内のすべての中高生」だった。つまり、山形市内の中1から高3まで。その中から選ばれるのはたった20名。
どうせ宝くじに当たるようなもんだろう、どうせ当たるわけないし、と深く考えずに言われるままに応募したのだが、なんとそれに当選(?)してしまったのだ。
選考に使われたのは、志望動機を書いたたった1枚の紙だった。しかし、私の作文力が秀でていたわけではない。私はただ、父に言われたことをそのまま文字に起こしただけなのだが、この連載コラムでも書いたことがあるように(107話)、私の父はツアーコンダクターをしていて、特にオーストラリアを偏愛していた。
そんな父が、オーストラリアはここが素晴らしい、こんなところもある、あんなところもある、ああそんなことを直に体験してみたい、さあそういうことを書けばよい、と私に指南していたのである。
行くと決まれば、問題となるのは当然英語である。私は特別な英語教育を受けていたわけではないので、私の英語能力は、中1の義務教育で受けた授業のそれしかなかった(当時の小学校では、英語に関する授業は一切なかった)。
「私は~」は「アイ・アム~」。「あなたは~?」と訊くなら「アー・ユー~?」。「~は何?」「~は誰?」「~はどこ?」はそれぞれ「ホワット・イズ~?」「フー・イズ~?」「ウェアー・イズ~?」。
その程度の、完全なカタカナの英語力である。出発までの間、「会ったこともない知らない外国人の家で2週間も生きていけるのだろうか」と不安な毎日を過ごしたのは言うまでもない。
そして出発の日。選ばれし山形市の中高生20数名が一同に会して、出発式が執り行われた。私の中学校からの参加者は私だけだったので、他の参加者は全員初対面である。そして、中1の私は最年少だった。
成田空港まで長距離バスで向かい、成田からシドニーを経由してメルボルンへ。そこからは長距離バスで、メルボルンと同じくヴィクトリア州にあるスワンヒルという小さな町まで、5時間ほどかけて向かったと記憶している。
見渡すかぎりの地平線と、どこまでも続く真っ直ぐな道路を初めて見た。途中の休憩地では、おそらくワイナリーだったのだろう、見渡すかぎりのぶどう畑を見た。
言うまでもないが、それらはどれも、私が13年間過ごした故郷・山形とはまるで違う風景だった。はるか遠い世界に来てしまったことを痛感した。非日常な毎日のはじまりである。
スワンヒルに到着し、ウェルカムパーティー的なイベントが催された。アボリジニたちのダンスも見た。そこで山形市の交換留学生たちは、それぞれのホストファミリーの家に振り分けられた。
私のホストを務めてくれたのはウォルドロン(Waldron)ファミリー。ウォルドロン夫妻にはどこか、自分の父母と似ている雰囲気を感じたのを覚えている。ウォルドロン夫妻にはふたりの息子、デービッドとポールがいた。デービッドはたしか私のひとつ年上、ポールはひとつかふたつ年下だったと思う。
ほとんどまったくと言って良いほど英語ができなかった私であるが、ウォルドロン家のひとたちはよほど親切に接してくれていたのであろう、嫌な記憶はまるでひとつも残っていない。
デービッドは面倒見の良い兄貴肌で、ポールはかわいげのある末っ子気質だった。なにをどうやって話していたのかはまるで覚えていないが、ポールとよくキャッキャとはしゃいでいたような記憶がある。
ウォルドロン家の間取りも毎日の食事も、食事の合間にどんな会話をしていたのかもまったく覚えていない。しかしひとつだけ今でもはっきりと覚えているのは、毎朝、自分の部屋のドアを開ける瞬間のこと。
自分の部屋に篭ってさえいれば、そこは自分だけの世界。言語に困ることもない。しかしそのドアを開けた瞬間、そこには英語だけの外国の世界が広がっている。そのドアを開けて新しい一日を始めるために毎朝勇気を振り絞っていたことは、今でも私の記憶に深く刻まれている。
そしてこれも言うまでもないが、1990年代前半には、ネットもメールもSNSも携帯電話もない。はるか遠い外国とリアルタイムに交流する術などなかったので、山形の実家とは完全に音信不通の2週間である。
しかし、ホームシックのようなものを覚えた記憶はない。折々にいろんなイベントがあり、ホストファミリーどうしが交流する機会がいくつかあった。この頃にはほかの留学生たちとも仲良くなっていて、みんなで一緒にマレー川で釣りをしたり水浴びをしたりした。
誰かが山形から持ち込んだのか、みんなで手持ち花火をしたような記憶もある。別のホストファミリーの子どもたちとも仲良くなり、赤毛の女の子(名前は忘れてしまった)にほのかな恋心を抱いたりもした。あるいは別のホストファミリーの女の子に、やはりほのかな好意を抱かれたりもした(というような話を、ある山形からの留学生から聞いた)。
面白いもので、今でも鮮明に残っている記憶のほとんどには、音楽が紐づいている。スワンヒルに滞在中、なにかのパーティーのたびにみんなで歌った「ワルチング・マチルダ(Waltzing Matilda)」。今でもサビはそらで歌える。キャンプファイヤーを囲みながら、花火をしながら、みんなで大合唱をした。
最後の夜には、山形からの留学生とホストファミリーの子どもたちがみんな参加するダンスパーティーがあった。当時は「シャンプー(Shampoo)」というイギリスの女性ユニットが流行っていて、その曲が流れるとみんなのテンションがバカ上がりした。
そのときの写真を見返すと、みんな汗だくになって踊り狂っている。もちろんその写真を見ても音楽は聴こえてこないのだが、そこにはみんなで「シャンプー」にノって踊る、屈託のない、充実感に満ちた顔がたくさん並んでいた。
――2週間のホームステイを終え、ホストファミリーと別れて、帰国の途に着く。
日本に発つ前の、メルボルンのホテルでの最後の夜のこと。仲良くなった山形の留学生たちと一緒に、お菓子やジュースを持ち寄って、修学旅行さながらに、誰かの部屋に集まった。
テレビではMTVのような音楽番組が流れていて、「シャンプー」の「Trouble」という曲が流れると、やはりみんなで大騒ぎした。こんな冒険のような毎日がこれからもずっと続いてくれたら、と思ったりもした。
帰国して、山形に戻り、他の留学生たちとも別れ、中2の新学期が始まった。家族のいる実家で、学校に行けば去年と同じクラスメイトたち。これまで通りの生活なのに、しばらくの間、その生活がしっくりこなかったのを強く覚えている。
ほかの留学生たちやスワンヒルの子どもたちとの2週間のホームステイ生活が楽しすぎて、私の「日常」という軸足がいつの間にか、非日常だったはずの「スワンヒルでのホームステイ生活」に移ってしまっていたのだった。
ここは自分のいるべき場所じゃない気がする、また「いつものみんな」と集まりたい、早く自分の「本当の居場所」に戻りたい。そんなことばかりを考えていた。
しかし、そんな感覚も時とともに薄れていくもので、セミが鳴き始める頃には、そんな山形での生活がすっかり私の日常となった。それからしばらくして、スワンヒルでの短期交換留学活動をまとめた一冊の冊子が、山形市から届いた。
そこには、ホストファミリーたちからのメッセージも載っていて、私のホームステイ先のウォルドロンファミリーからは、こんなコメントが添えられていた。
"――ケイは、とてもジェスチャーが上手な子だった"。
ふた月ぶりの旅路を終えて8年ぶりのオーストラリア。メルボルン、ゴールドコースト、そしてシドニーでの用務を終え、シドニー国際空港で羽田に向かう飛行機を待つ私は、30年前のそんな出来事を思い出し、Apple Musicでおもむろに「シャンプー」を検索した。
――今回の出張に出る前のコラム(147話)で、「オーストラリアには『こんな国』というイメージが湧かない」という話をした。
その理由がずっとわからずにいたのだが、それはもしかしたら、私の中のオーストラリアは、「『ウイルス学者』としての出張先」という文脈ではなくて、30年前のこんな記憶と無意識のうちにうっすらと結びついていたからなのかもしれない。
「シャンプー」の「Trouble」の後に「ワルチング・マチルダ」を聴いて、ふとそんなことを思ったりもした。
文・写真/佐藤 佳
記事提供元:週プレNEWS
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