【WBA&WBC世界フライ級王座統一3.13決戦】"ラスボス"拳四朗と"化身"阿久井の最終章(12回連載/11回目)
最終12回、ユーリ阿久井に逆転勝利した拳四朗(写真/北川直樹)
2025年3月13日、歴史に刻まれる一夜もついに最終ラウンドへ。非公開採点は2対1、阿久井がわずかにリード。拳四朗が勝利するための条件は3つ――KO、TKO、圧倒的な差でポイントを突き放すこと。雌雄を決する鐘の音が、東京・両国国技館に高々と響き渡った。
* * *
■「第3の目」篠原の視線――阿久井の呼吸拳四朗陣営のトレーナー、篠原は、阿久井の「ある変化」に気づいた。
「11回が終わってコーナーに戻るときの足取りが、かなり重く見えました。椅子に座って指示を聞きながら、腹式呼吸と胸式呼吸が交互に出ていたんです。深く吸って腹をふくらませる瞬間と、肩を小刻みに上下させて浅く早く吐く瞬間。その呼吸の揺れを見て、疲労が限界に近いと感じました。逆に拳四朗君は呼吸が乱れていなかった。『いけるかもしれない』と思いました」
ゴングが鳴り、ファイナルラウンドが始まった。構図は変わらない。阿久井はリング中央付近を陣取り、拳四朗はそのまわりを、左リードジャブで間合いを測りつつ左にサークリング。しかし、阿久井が返す左リードジャブには、これまでの鋭さや威力は失われていた。
開始36秒――。
拳四朗の右アッパーから切り返しの右ストレートが阿久井の顎をとらえた。動きが止まった阿久井。連打に出る拳四朗。会場の歓声はどよめきに。阿久井はたまらず、初めて自らクリンチを仕掛けた。クリンチまでの20秒間で浴びたパンチは25発。阿久井は反撃できないまま、ひたすら耐え続けた。
開始60秒――。
レフェリーの中村勝彦が両者を分けると、阿久井はガードを高く上げ直して体を左右に振り、足を引きずるようにして前進。しかし、拳四朗を倒せるだけの力はもはや尽きていた。
やがて足は止まり、腕を伸ばした拳も届かなくなった。
残り90秒、ふたたび拳四朗の連打が襲い掛かる。
見かねた中村が阿久井に抱き留めた。
万事休す――。
12回1分31秒、TKO。
拳四朗は勝者に。
阿久井は敗者となった。
拳四朗に打たれ続けるユーリ阿久井を見て、中村レフェリーは試合ストップした(写真/北川直樹)
勝敗が決した瞬間、拳四朗はロープをくぐってリングに上がった加藤と、力強くハイタッチを交わし、抱き合った。
同じタイミングでリングに上がった横井は、相手陣営が茫然と立ち尽くすなか、迷わず阿久井のもとへと駆け寄った。
上唇を裂き、鮮血が顎を伝って滴り落ちる阿久井。勝敗は決まったにもかかわらず、中村レフェリーに身を乗り出すようにして詰め寄った。試合中は淡々と、表情を変えず戦った阿久井は、初めて感情を爆発させ、大観衆に囲まれた中で、人目もはばからずに泣き叫んだ、
「俺、勝ってたやろ!」とーー。
泣き叫ぶ阿久井の顔に付着した血と汗を、横井は自分のタオルで拭い取った。横井はその時についてこう話した。
「最後まで倒れることを拒み、気力で立ち続けながら打たれ続けていたから、『大丈夫か!?』と心配になってね。最初、加藤がユーリのところに行こうとしたので、自分はお尻を叩いて、『おまえは拳四朗のほうに行け! 俺が見る!』と伝えました。
ユーリは、『俺、勝ってたやろ!』と、何度も中村さんに訴えていました。『勝ってたやろ! 勝ってたやろ!』って。リングのまわりにいた観客にもはっきり聞こえるほどの大きさで、絞り出すような響きでした。
必死に言葉を繰り返す姿を見て、涙が出そうになりました。客観的に見れば、あのまま続けても拳四朗の勝利は動かなかったと思います。でも、自分の中ではもう『勝ち負けなんてどうでもいい』という気持ちでした。すごい試合をした、よく頑張った。『ユーリ、かっこよかったぞ!』――本当はあのとき、そう伝えたかったのですが、結局、自分自身も余裕はありませんでしたけど」
拳四朗と阿久井――ふたりを囲む歓声と拍手が渦を巻き、青と赤のコーナーでそれぞれの物語が同時に動いていた。勝者と敗者の境界線のわずかな距離で、横井をはじめ、言葉にならない大勢の人たちの「思い」も交差していた。
■父・一彦の思い――「いったい何が、足らんかったんじゃろうか」午後10時半――。
7500人の観客を熱狂させた宴のあと、照明が落とされた両国国技館の正面玄関を出たところで偶然、阿久井の父・一彦と鉢合わせた。
倉敷守安ジム初のプロボクサーだった一彦は、政悟にとっては父であると同時に、ボクシングに触れるきっかけを与えてくれた存在だ。2001年3月20日、岡山武道館での一彦の引退試合。当時5歳だった政悟はリングに上がり、母とともに父を労った。阿久井はその後、運命に導かれるように父と同じ道、同じ師匠のもとでボクサー人生を歩み始め、現在に至っている。
「政悟は今回、過去最高の状態で当日を迎えて、過去最高の戦いを見せました。拳四朗君に対しては、並々ならぬ思いがあったようです。試合前も、『拳四朗君に引導を渡せるのは自分しかおらん』と話していましたから......」
昨年11月の守安ジム取材時には会えなかった一彦と、近くのやきとり屋で「遅い夕食をとりながら話でも」となった。仕事の都合をつけ、高速道路のサービスエリアで休憩を取りつつ岡山から車で駆けつけた一彦は、翌早朝には運転して戻る予定だった。アルコールはなし。ふたりで枯れた喉を炭酸水で潤した。
「あれだけの準備をして、あれだけの強い覚悟を持って挑んだ。それでも勝てんかった。これ以上、どうすりゃ拳四朗君に勝てるんか、わしゃ分からん」
阿久井は折り返しの6回までは「打たれても下がらずに打ち返す」という積極的な攻撃で、一進一退の攻防が続く中でも主導権を握り続けた。
7回以降は戦略を修正し、ステップワークで距離に変化を持たせ、パンチのタイミングをずらしてヒットさせる拳四朗に翻弄される場面が増えた。それでも「打たれても下がらずに打ち返す」という当初のプランは崩さず、拳四朗の顔面を跳ね上げて会場を沸かせた。
最終12回を迎えるまではリードしていた。
しかし、結果は12回1分31秒、TKO負け。
阿久井は、あと29秒間倒れずに耐え切ることができれば、仮にジャッジ3者とも拳四朗に「10対9」を付けても、合計は0対1(阿久井側:114対114×2/112対116)で引き分け(=多数決ドロー)。3人のジャッジのうち、2人から指示されないと勝敗は付かないため、「阿久井、拳四朗ともにそれぞれ保持するタイトル防衛」という結末になった。
「いったい何が、足らんかったんじゃろうか」
一彦は俯いた。
守安ジムで息子・政悟の練習を見守る一彦(左)と守安竜也会長(右)
「政悟は、これまで何度も苦境を乗り越えてきた。倉敷守安ジムは地方の小さなジムじゃけえ、日本チャンピオンになるチャンスを掴むだけでも大変じゃった。日本チャンピオンになってからも、興行を打つだけでも大事なことなのに、コロナ禍が重なってしもうたんじゃ。初防衛戦が実現するまでに1年間、2度目の防衛戦も初防衛から9か月後じゃった。
ダラキアンとの世界戦も、興行自体が一旦延期になって、2か月後にどうにか実現した。そのときのメインイベンターは拳四朗君。ダラキアン戦は、ロシアのウクライナ侵攻の影響で、最後までどうなるか、わからん状況じゃった。もちろん、コロナ禍の当時は、政悟だけが大変じゃったわけじゃない。でも、それも含めて本当に、いろいろな意味で苦境を乗り越えて、ここまで辿り着いた。じゃけえ......」
「じゃけえ......」と話したところで、一彦は言葉を止めた。
テーブルの上には手をつけていない焼き鳥が何本も残っていた。2杯目の炭酸水で口の中を湿らせ、深く息を吸い込んでゆっくり吐き出した。
だから、今回も同じように苦境を乗り越えるはず――。
一彦は、そう話そうとしたのではないか、そんな気がした。
「政悟は頑丈そうに見られますけど、ほんまは打たれ強いボクサーじゃない。むしろ顎は、ちぃと打たれ弱いほうかもしれん。じゃけぇこそ、基本に忠実なスタイルで、ガードをきっちり固めるようになりました。ボディ攻撃は、練習で鍛えて強ぅすることもできますし、気持ちで耐えることもできる。じゃけど、顎は鍛えられません。これは、どうにもならんのです」
化身になってでも拳四朗を超えたい「執念」。世界チャンピオンの父親として、新たな家族を迎えたい「願い」。二つの思いが、阿久井を支え続け、キャンバスに膝を落とすことを許さなかった。
試合後、舞台裏のドクターチェックの部屋の前に立っていると、胸元から腹部まで鮮血に染まったシャツを着た中村レフェリーが現れた。裁きを終えたばかりのその顔にも、返り血がこびり付いたまま。息を荒らし、肩で呼吸しながら立ち尽くすその姿をみたとき、この一戦の激しさがそのまま映し出されていたような思いがした。
午前零時――。
店を出たところで別れることに。両国国技館周辺の明かりは全て消え、ほんの数時間前の熱狂が嘘のように、暗闇と静寂に支配されていた。一彦はカプセルホテルを探して仮眠を取り、朝一番で岡山に戻ると話した。
「寺地拳四朗、すごかったわ......」
一彦は別れ際、最後に一言そう呟いた。
■充実、悔しさ――「うん......全力で出来たかなと」試合翌日の午前11時、都内ホテルで行われた会見場に現れた阿久井。サングラスをかけていても、まぶたの腫れは隠せない。とくに目元から頬にかけては赤く腫れ、前夜のダメージを物語っていた。
試合後は会見をキャンセルして病院に直行し、切った上唇の縫合処置を受け、ホテルに戻ったのは午前4時。明け方近くの夕食は、トレーナーであり、幼なじみの信定が用意してくれたコンビニのおにぎり2つ。そして大好きなコーラひと缶。試合中、「ワンフェイク!」「半拍!」と声を枯らして叫び続けてくれた友の思いやりを感じつつ、ひさびさに、コーラを一気飲みした。
会見が始まった。阿久井はいつものように淡々と話し始めた。
「調子は良かったし、昨日(試合の日)だけは、拳四朗さんを上回ってやろう、という気持ちで、初回から全力でいったんですけど、最後に良いのをくらっちゃいましたね。試合前から調子が良いのは感じていたので、『これだったらいける』と自信満々で挑めたし、実際リングに立ったら拳四朗さんも小さく見えたので、『これはいけるな』と感じていました」
試合直後はキャンバスにうつ伏せのまま動けず、大粒の涙を流した。敗者の姿は痛々しかったが、会見では笑顔も見せ、晴れやかな表情さえのぞかせた。
もちろん、勝利を逃した悔しさは消えていないはずだ。それでも、多少はお腹を満たして仮眠もとれたことで、気持ちをわずかに整えたように見えた。
「(セコンド陣から)『競り合っているぞ』と言われて、『ここ(12回)を取ったほうが勝ちだな』と思ったので、倒すつもりでいきました。前回(WBA2度目の防衛戦)から今回の統一戦までずっと走ってきて、『これで負けたらしようがない』と覚悟を決めていたんですけど......及ばず、というのが悔しくて。
(拳四朗さんは)相手の攻撃を外すリズムがうまかったですね。それでも気持ちで負けないように、『打たれたら打ち返す』という思いで挑みました。勝ち負けよりも『自分の出来ることをやってやろう』というのが目標だったんですけど、そのあたりは出来たかなと。自分をしっかり出すことができた。うん......全力で出来たかなと」
試合翌日の記者会見では、終始穏やかな表情で話したユーリ阿久井
11回までリードしながらも、最後の最後で勝利を逃した。勝負を分けたものは何だったのか。拳四朗をどう見たのか、――著者である自分は、手を挙げて質問してみた。
「まずは経験と引き出し。作戦を変えられること。最後までやり切れる気持ちとスタミナ、根性......そのあたりがすごかったかなと思います。自分も100パーセント気持ちをぶつければ勝算はあると思っていたんですけど、最後まで持たせるのは難しくて、そこで上回られたのかなと。拳四朗さんは......そうですね、結果で返されましたけど、最強の存在ですね」
守安ジムで初めて取材したとき、阿久井は
「拳四朗さんは自分のボクサー人生にとってラスボスのような存在」
と語っていた。
2019年4月、日本フライ級4位だった阿久井は初めて、当時WBC世界ライトフライ級王者で5度防衛中だった拳四朗と、スパーリングで拳を交えた。
完膚なきまで叩きのめされ、「どうにもならねえな」と絶望したが、同時に、拳四朗の存在は目指すべき強さの基準となり、そして、長い年月を経てようやく同じ舞台に立てた。あと一歩まで拳四朗を追い詰めた阿久井。しかし、最後の最後、あらためてその強さを思い知らされた。
最終12回、引き分けで両者防衛の可能性も残る中でストップされたことについて別の記者から聞かれると、
「最後まで狙っていたことは狙っていたんですけど、打たれていたから......まあ、しようがないかなって感じですね。ストップに異論はないです」
と答えた。そして、また別の記者からは「もう1回、寺地選手とやりたい気持ちは?」とーー。
6月末には第3子、男の子が誕生予定。「(世界)チャンピオンのまま、生まれてくるのを迎えたい」と誓っていただけに、正直、いま再戦について聞かれても、おそらく答えられるような心境ではなかったはずだ。それでも少し間を置くと、
「まあ、機会があれば......ですね。楽しい試合になったので、もう一度やりたい気持ちもあります」
阿久井はそう答えて締めくくった。
■ユーリ阿久井政悟(あくい・せいご)*写真左
1995年9月3日生まれの30歳。岡山県倉敷市出身。本名は阿久井政悟。父親と叔父も元プロボクサーという環境に育ち、中2から倉敷守安ジムで本格的にボクシングに取り組む。地元の環太平洋大学進学後の2014年4月にプロデビューし、翌年、全日本新人王獲得。2019年10月、日本フライ級王座獲得。2024年1月、アルテム・ダラキアン(ウクライナ)に判定勝利し、岡山県にあるジム所属として初の世界王者に。2025年3月13日、寺地拳四朗とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦では最終12回TKOで敗れる。通算戦績は25戦21勝(11KO)3敗1分け。
■寺地拳四朗(てらじ・けんしろう)*写真右
1992年生1月6日まれの33歳。京都府出身。B.M.Bボクシングジム所属。2014年プロデビューし、2017年、10戦目でWBC世界ライトフライ級王座獲得。9度目の防衛戦で矢吹正道に敗れて王座陥落するも、翌2022年の再戦で王座奪還。同年11月には京口紘人に勝利してWBA王座獲得し2団体統一王者に。2025年3月13日、ユーリ阿久井政悟とのWBA &WBC世界フライ級王座統一戦でも勝利し、二階級で世界2団体統一王者に。2025年7月30日、リカルド・ラファエル・サンドバルに判定負けを喫して王座陥落。通算戦績は27戦 25勝 (16KO) 2敗。
取材・文・撮影/会津泰成
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