昭和の邦題は「売れる香りがする言葉」をブレンドした"謎の文学ジャンル"だった!? 市川紗椰、マニア目線で分析
『週刊プレイボーイ』で連載中の「ライクの森」。人気モデルの市川紗椰(さや)が、自身の特殊なマニアライフを綴るコラムだ。今回は「おもしろ洋楽邦題」について語る。
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海外の曲につけられる、日本独自の邦題。特に昭和時代の邦題は、レコード会社の宣伝部員が原題を横目で見ながら「売れる香りがする言葉」をブレンドした、謎の文学ジャンルだったと思ってます。原題を、その時代の日本人にとって一番刺さる物語に加工する編集作業で、本来の歌詞と無関係でも、当時の街の空気や恋愛観が詰め込まれていてかなり味わい深い。
有名な例は、シンディ・ローパーの『Girls Just Want to Have Fun』(1983年。現地発売年・以下同)。普通に訳せば「女子はただ楽しみたい」だけど、邦題は『ハイ・スクールはダンステリア』。高校もダンスもテリアも歌詞に出てこないし、そもそも「ダンステリア」という単語は英語には存在しない。なぜテリア? なぜ高校?
その理由を知る人はレコード会社の宣伝部だけ。カルチャー・クラブの『Karma Chameleon』(83年)の邦題『カーマは気まぐれ』も印象的ですね。「業」とか「因果応報」を意味するkarmaを「カーマ」という謎の固有名詞扱い。個人的なお気に入りはボビー・ダーリンの『Beyond the Sea』。「海の向こう」的なニュアンスの日本語になるのかと思いきや、邦題は『ラ・メール(海)』。フランス語かい。〝邦〟とは。
私的に変遷をまとめると、1950年代、60年代は海外映画ブームの影響で、洋楽にも映画邦題的な「詩情と格調」が求められ、恋、涙、港といった〝しみる〟ワードが鉄板。ビートルズの『I Want to Hold Your Hand』(63年)の邦題は『抱きしめたい』で、手をつなぎたいだけだったのに、距離感がぐっと縮まってドラマチック。
60年代後半から70年代になると、フォークやポップスが日本に根づき、「青春・旅・再会」のモチーフの邦題が量産。ピーター、ポール&マリーの『Leaving on a Jet Plane』(67年)は『悲しみのジェット・プレーン』。ニュー・シーカーズの『I?d Like to Teach the World to Sing』(71年)は、原題の教育的要素を消して『愛するハーモニー』と、合唱の青春っぽさをプラス。
80年代に入ると邦題文化がピークに達する気がします。バブルが生んだキャッチコピー時代で、音楽も邦題も派手さ全開。青春、恋、ダンス、カタカナ乱舞。原題そっちのけの邦題オリジナルコピーが乱発。「売れそうな単語を全部入れろ!」の精神で、原題と距離が広がった印象です。名邦題と迷邦題が多発しますが、ワム!の『Wake Me Up Before You Go-Go』(84年)は、ちょっと空耳っぽい感じで『ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ』になっています。
しかし、90年代から邦題は減少。CDの普及で、洋楽を原題のまま聴くのが普通になります。それでも映画主題歌では、最後の悪あがきのような邦題も。セリーヌ・ディオンの『My Heart Will Go On』(97年)は『タイタニック・愛のテーマ』という副題的なものがついたり。でも面白邦題がめっきり減って、寂しいもんですねー。
●市川紗椰
1987年2月14日生まれ。米デトロイト育ち。父はアメリカ人、母は日本人。モデルとして活動するほか、テレビやラジオにも出演。著書『鉄道について話した。』が好評発売中。最近の海外のヒット曲の邦題を考えたい。公式Instagram【@sayaichikawa.official】
記事提供元:週プレNEWS
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