【戦後80年特別企画】節目の年、知っておくべき戦争の現実――巣鴨プリズンに収容され、死刑判決を受けたある"BC級戦犯"の日記
昭和14(1939)年に撮影された冬至堅太郎の家族写真。右が父・又三郎で、左が母・ウタ。ウタが抱いているのは親戚の女の子
80年という長い歳月によって第2次世界大戦の記憶が薄れつつある。しかし、戦争に巻き込まれた人たちは、未来を生きる人たちにどうしても伝えたいことがあったのだ。あるBC級戦犯の日記を紹介する。
※一部敬称略。
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■米兵を処刑し、死刑囚となった「BC級戦犯」という言葉は聞いたことがあっても、何をした人なのかを知る人は多くないだろう。
いわゆる「A級戦犯」は、第2次世界大戦後に「平和に対する罪」で連合国(アメリカなど)により裁かれた日本の戦争指導者たちのこと。東京裁判(極東国際軍事裁判)で、7人が絞首刑となった。
一方、BC級戦犯は、捕虜虐待や残虐行為などで起訴された兵士など約5700人のことで、約920人が処刑された。
このBC級戦犯として、死刑判決を受けた人物に元陸軍主計大尉の冬至堅太郎(当時34歳。1983〈昭和58〉年に68歳で死去)がいる。
冬至堅太郎は、米兵の捕虜を殺害したとして、裁判にかけられた。そのときの経緯を息子の克也氏が語る。
冬至堅太郎のご子息である冬至克也氏。「父は自分が死刑囚だったことを包み隠さず話していた」という
「父は招集されると、陸軍主計(軍の経理)中尉(後に大尉)として中国戦線などを経て、地元・福岡の西部軍の配属になったんです。
福岡は、昭和20(1945)年6月19日にアメリカ軍のB-29爆撃機によって空爆を受けました。翌朝になって兵舎から実家のあった場所に行ってみると辺りは焼け野原になっていて、父親とは出会えましたが、母親の姿は見当たりませんでした。逃げている途中でバラバラになったということです。
その後もずっと捜し続けましたが母親とは会えず、最終的に遺体安置所で母親の遺体を見つけたそうです。
そして、母親の遺体を入れるひつぎを作るために兵舎に戻っていたら外がやけに騒々しい。ちょうどB-29爆撃機の搭乗員の処刑が行なわれようとしているところでした。
母親を奪われた怒りもあったのでしょう。自分は処刑を執行するに値する人間だと考えて『自分にやらせてください』と志願したそうです。そして、ひとり斬首して立ち去ろうとしたら、上官から『次もやれ』と言われた。これは命令だと思って、続いて3人を処刑しました」
その場には軍の司令官や法務官がいたため、堅太郎は正式な裁判を経た処刑だと思っていたが、実は正式な手続きを踏んだものではなかったことが後からわかる。軍律会議にかけないで捕虜を処刑したため、戦争犯罪人となってしまったのだ。
昭和20年8月15日に終戦を迎え、日本に進駐軍がやって来ると戦争犯罪人捜しが始まった。そこで堅太郎は自決することを決めた。
「自分が逃げると家族が拷問を受けるなどの被害が及ぶ。でも、自分が死ねば家族に迷惑はかからないから、潔く死のうと思ったのでしょう。そのことをある高僧に話したんです」(克也氏)
そのときの会話を堅太郎は著書の『苦闘記』に次のように書いている。
(※文章は一部を抜粋しています。かぎかっこ前の「冬至」「米兵」などは発言者がわかりやすいように編集部で加えています。旧仮名遣いは新仮名遣いに変え、難しい漢字は平仮名にしたり、ルビを振っています。後出の『巣鴨日記』も同様です)
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冬至「自決するつもりでおります」
高僧「何故自決なさるのですか?」
冬至「敵に捕えられ罪人として殺されるのは厭ですし、あとに残る家族の名誉のためにも軍人らしく自決したほうがいいと思います」
高僧「そんな見栄はお捨てなさい。敵とか味方とか、一家の名誉とか、そんなものにとらわれなさるな。仮に貴方が生き永らえたとしてもせいぜいあと五、六十年の命でしょう。その短い命を更に縮めるような小細工はなさるな。短いが仏に頂いた大切な命です。辛くとも生きなさい」
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こうして堅太郎は、昭和21(1946)年4月に米軍の憲兵隊(MP)に捕まり、福岡刑務所に収監されることになる。『苦闘記』には次のように書かれている。
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米兵「君はどうしてここに連れてこられたかわかるか?」
冬至「米軍の飛行士処刑事件のためだと思う」
米兵「君はその事件で何をしたか?」
冬至「私は飛行士四人を斬首した」
米兵「だれの命令でやったのか?」
冬至「だれの命令でもない。志願してやったのだ」
米兵「君は自分のしたことをどう思うか?」
冬至「法律的にはともかく、神の目から見たら死刑だとおもう」
米兵「自ら死刑を認めるのか?」
冬至「そうだ」
尋問は何事もなく終わったが、その夜、福岡刑務所の未決監に入れられ、そこでMPから半死半生の目に合わされた。拳(こぶし)で突かれ撲(なぐ)られ蹴られ、幾度か倒れながらも私は全く無抵抗であった。
その翌晩も同様に痛めつけられた。しかし三日目からは何ら手荒なことをしなくなったのみか、五日、十日と過ぎるうちに笑顔を見せ、故郷の話をするようにさえなったのだった。
私は直接の利害よりも、あれ程の憎悪を示した彼さえその憎悪に徹しきれないと云う人間の本性の善良さに気づいて、心から温まる思いであった。
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冬至堅太郎が収容されていた東京都豊島区の「巣鴨プリズン」(旧・東京拘置所)の正面ゲート
その後、昭和21年8月30日に東京の巣鴨プリズンに移送され、堅太郎らBC級戦犯の裁判が始まる。
巣鴨プリズンで書かれた『巣鴨日記』は、入所した8月30日から始まり昭和27(1952)年9月までの長期に及ぶ。2500ページ以上という膨大な量だ。その一部を紹介する。
冬至堅太郎が巣鴨プリズンで書いた2500ページを超える『巣鴨日記』(RKB毎日放送提供)
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昭和二十一年 八月三十日 金
家族とへだつること三百里、故里(ふるさと)に同じ虫の音を聞きつつ第一夜の寝につく。
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堅太郎が関わった西部軍事件の裁判は、昭和23(1948)年10月から始まった。
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昭和二十三年 七月十四日 水
◎午前中桃井弁護士と会う。私の弁護について非常に困難で処刑者中最悪の条件にあるという。
T(とうじ)「そのことは十分承知しています。それに応ずる覚悟もしています」
M(ももい)「承知しました。志願されたのが致命的な悪条件になっています。死刑さえまぬがれれば成功と思って下さい」
T「私もそう思います。私は処刑者としての責任は喜んで負いますが、殺人者としての罪はきたくありません」
M「ごもっともです。貴方がやらなくても誰かが処刑したのですから、その点はご希望にそうように出きるだけの努力はします」
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十二月二十二日 水
◎ゼーラーの友情
私たちのいる六号棟に来る十数名のゼーラー(編集部注:看守)の中で、特に私の親しい一人がいる。
米兵「何年くらいの判決を受けると思っているか?」
冬至「多分終身と思うが死刑のおそれも十分ある」
米兵「僕はそう思わない。君が釈放になるのを見てアメリカに帰りたい」
冬至「ありがとう。しかし君は私のしたことを知らないだろう」
米兵「少し知っている」
私は裁判資料の中から英文でしたためた部分を出して見せた。
米兵「君の気持ちはよく判る。君がお母さんを殺されて怒ったのは当然だ。もし僕がそのような立場に置かれたら君と同じことをやったに違いない」
冬至「君もそう思うか? 僕にとって余りに自然でそうするより仕方なかった」
米兵「今でも君は米兵に対して怒りを持っているか?」
冬至「いや全然持っていない。今は母はアメリカ人に殺されたのではなく、大きな戦争のために死んだとしか思っていない」
米兵「四人処刑したときはどんな気持ちだったか?」
冬至「志願するまでは本当に怒っていたが、処刑の位置についた時にはただ立派に処刑を遂行することより他は考える余裕がなかった。
あとで私の妻にこの処刑のことを話したら、妻は『その飛行士たちには奥さんや子供があったでしょう』といった。僕は言葉がなかった。しかし『これが戦争というものだ』と思った」
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十二月二十九日 水
遂に来るべき判決の日は来た。
絞首刑! これが私に与えられた判決である。
■仲間が次々と死刑執行される十二月三十日 木
死刑囚としての第一夜。どんな夢を見るかと思っていたが、ぐっすりねむった。朝食もうまかった。朝食後また一ねむり。3ヶ月の裁判の疲れが一度に出たのか、ねむくてやりきれない。
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その後、死刑囚としての日々を送る。
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昭和二十四年 一月二日 日
私はこの三年の間、死というものを考えつづけ、幸にして死刑の判決も立派に受けることができた。しかしこのことは極刑に満足しているということでは絶対にない。私は法律的には無罪と信じている。たとえ結果がどうであろうと、自己の正しさは最後まで主張しつづけねばならない。
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二月十日 木
今日午後ふとした機会で、明日幾人か処刑されるだろうと聞いた。
私たちのすじ向かい、十九号の前に四、五人の米兵が来て、何かしている。間もなく中から大きな布団包みをもって出てゆく友人の姿が見えた。どこかの房から「しっかりしてゆけよ」と声がかかり、「お先へ行きます」と答えるのがきこえる。私は心の中で合掌してうしろ姿を見送った。
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七月七日 木
一号室の佐藤さんが呼び出されるのがきこえた。
私は金網の扉に手をかけて立ち、廊下を見ていると看守が「見てはいけない」という。
「なぜだ」
「いけないといったらいけない」
「いけないことがあるものか。私は別れの言葉をいうのだ」
しばらくして数人の米兵に護(まも)られながら佐藤さんが部屋に挨拶をしながらやって来た。ニコニコと笑っている。
「お世話になりました」
「直ぐあとから私も行きますからね。待っていて下さい」
「いや、来ちゃいけませんよ」
佐藤さんは笑いながら次の部屋に行く。やがてこの棟を出て行くらしい足音である。その時、「南無妙法蓮華経」の声が起こった。私たちも正座して合掌、題目を唱える。
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昭和二十五年 四月八日 土
家族の写真を見ていると私はたまらなくなる。こんなに可愛い家族を残して死なねばならぬことに全身的な反抗を持とうとする。しかし、それも瞬間的だ。この悲しみは誰のせいでもない。すべて私自身のものだ。悲しみは悲しみとして、苦しみは苦しみとして素直に受け取ろう。それが一番強い生き方だ。
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昭和25(1950)年6月25日に朝鮮戦争が勃発。その後、米軍は参戦することになる。そんな中、死刑を覚悟していた堅太郎に転機が訪れる。
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七月十一日 火
隣室の森さんより「西部軍事件七名無期に減刑の報あり、おめでとう」と紙片が来た。余り突然なので信じられず、そのまま仕事をしていると階下の一般既決のリーダーが「皆さんに申し上げます。今朝のラジオニュースによれば総司令部渉外局より西部軍事件横山勇以下七名無期に減刑の旨発表されました」とアナウンスし、それに応じて大勢の拍手がきこえた。
私ですら減刑になるということは全員減刑の前触れであろう。そう思った時に始めて私はほのぼのとして喜びを感じた。
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七月十四日 金
◎米兵出発
看守から、近日中にここは日本政府の管理に移され、米兵は全部朝鮮へ出動すること、すでに一部は出発したことを聞いた。
私はこの一年半の間にしばしば米兵と死について語り合ったことがある。その時私はいつも「君と私はどちらが先に死ぬかわからない」といった。彼らはうなずく者もあったが、多くは「そんな馬鹿なことが......」と笑った。しかし今、私は減刑され彼らは戦況非なる朝鮮へ送られるのだ。
当所に看守として勤務しているのは大部分が二十才前後の若い兵で、米国から渡って来て間もない未教育の者もだいぶいる。これらの兵が北朝鮮軍の銃火にバタバタと死ぬのか――と思うと私は可哀想でならない。彼らもすっかり憂鬱(ゆううつ)な顔をしている。
戦争は嫌いだ。
冬至堅太郎の「巣鴨日記」には「戦争は嫌だ」という文字が書かれている。これが本心なのだろう
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終身刑に減刑された堅太郎は、6年後の昭和31(1956)年7月に巣鴨プリズンを出所することになる。
その間、刑死・獄死した戦犯たちの遺書をまとめた『世紀の遺書』(巣鴨遺書編纂会)の出版にも関わった。
その中から、昭和25年4月7日に巣鴨プリズンで最後の処刑が行なわれた元海軍一等兵曹の藤中松雄の遺書の一部を紹介する(伏せ字は編集部によるものです)。
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戦争さえ無ったら命令する人もなく父が処刑されるような事件も起こらなかった筈です。そして戦場で幾千幾百万と言う多くの人が戦死もせず、またその家族の人たちが夫を、子を奪われ父を兄を弟を奪われて泣き悲しむ必要もなかったのです。だから父は〇〇と〇〇に願ってやまない事は如何なる事があっても
「戦争絶対反対」
を生命のある限り、そして子にも孫にも叫んで頂くと共に全人類が挙(こぞ)って願う
「世界永遠の平和」
のために貢献して頂きたい事であります。
藤中松雄の遺書には「戦争絶対反対」そして「世界永遠の平和」のために貢献してほしいと大きく書かれている
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「父は、私が物心ついたときから『自分は死刑囚だった』『巣鴨に10年いたんだ』と言っていました。それはなぜかというと、戦犯として処刑された人たちに対する弔いの気持ちがあったからだと思います。また『アジアの国にものすごく迷惑をかけた。ひどい戦争だった』とも言っていました。
戦争を経験した人は、ほぼ全員が『戦争は絶対にしたらいけない』と言いますよね。これは魂の叫びだと思います。ですから、そのことだけは肝に銘じる必要があるのではないのでしょうか」(克也氏)
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今年は終戦から80年という節目の年になる。本でもテレビ番組でも映画でもいいので〝戦争〟について考える時間を少しでも持ってもらえたらと思う。
※8月15日(金)から1週間、RKB毎日放送制作(監督:大村由紀子)による冬至堅太郎の生涯を描いた
映画『巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯』が福岡・天神の「kino cinema天神」で公開されます。
取材・文/村上隆保 写真提供/冬至克也 RKB毎日放送 取材協力/碓井平和祈念館(福岡県嘉麻市)
記事提供元:週プレNEWS
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