王者・寺地拳四朗が交わしたあの日の『約束』――3年10ヶ月の軌跡
僅差判定で敗れ、王座から陥落した寺地拳四朗(写真/北川直樹)
2025年7月30日、神奈川・横浜BUNTAIで行われたボクシングのWBA&WBC世界フライ級タイトルマッチ。同級2団体統一王者・寺地拳四朗(BMB)は、WBC同級2位、WBA同級3位のリカルド・サンドバル(米国)に判定負けを喫した。一夜にして失った、あらゆる栄光。そんな喪失の中でも、拳四朗は激戦の舞台裏で"あの日"から3年10ヶ月の時を経て、確かな成長を見せていた。
「And the NEW!」
判定結果を待つ静寂に包まれた会場――。世界的なリングアナウンサー、ジミー・レノン・ジュニアが、語気を強めて、そう告げた瞬間、挑戦者のサンドバルは、雄叫びをあげて跳び上がり、王者の拳四朗は、淡々と手を叩いて拍手をし、勝者を称えた。
スコアは、1人目のジャッジは「115対112」でサンドバル。2人目のジャッジは「114対113」で拳四朗。そして3人目のジャッジは「117対110」でサンドバルを支持。
拳四朗は、5回に鮮やかなワンツーでダウンを奪うも、スプリットデシジョン(1対2)で敗れた。
3人目のジャッジの付けた「117対110」というスコアに関しては、一部メディアやファンの間からは「あり得ない」と疑問の声も聞こえてきた。しかし、塞がりかけた右目と、酷く腫れ上がった顔。12回終了後、コーナーに戻った拳四朗自身がうなだれて涙を流した様子を見れば、結果について、議論する必要はないように思えた。
2団体の世界タイトルを同時に失った拳四朗は、内定していたサウジアラビアで開催される「リヤド・シーズン」興行への参戦も、一旦白紙に。米国の老舗ボクシング専門メディア『ザ・リング』による格付け、「パウンド・フォー・パウンド(PFP)」ランキングも圏外転落が濃厚となるなど、拳四朗は一夜にして、あらゆる栄光を失った。
判定結果を聞いた瞬間、拳四朗(左)は俯いたまま。一方、サンドバル(右)陣営は歓喜に沸いた(写真/北川直樹)
試合後の控室――。
一番奥まった場所で右目を氷で冷やしながら、椅子の背もたれにもたれかかるようにして座る拳四朗は、無言のまま、時折、白い大きなタオルで涙や汗を拭った。
「チーム拳四朗」のリーダーであり参謀の加藤健太チーフトレーナー。熱のある言葉で奮起、鼓舞したサブトレーナーの横井龍一。そして、フィジカルコーチの篠原茂清という3人のセコンド陣も無言のまま。BMBボクシングジム代表で父親の寺地永(ひさし)会長、東京での練習拠点、三迫ジムの三迫貴志会長ほか、スタッフやジム生など、全員が黙ったまま、拳四朗を見守った。
控室のモニターからは、アナウンサーと解説陣が、興行の振り返りをする様子が流れてきた。WBA世界ライトフライ級の新王者になった高見亨介(帝拳)がダウンを奪い、コーナーに駆け上がり、拳を観客席に突き上げて歓喜する場面だった。
「ニュースターの誕生」「伝説の始まり」
アナウンサーや解説者はそんな言葉で高見の勝利を伝えた。
続いて「元」王者になった拳四朗の試合が紹介され始めた。アナウンサーは「サンドバルという新しい、軽量級の強いチャンピオンが出てきた」と説明し、解説陣に「拳四朗、このあと何を話すのか注目ですよね」と話題を振った。
「なんで負けたんかな......」
拳四朗は配信を見ながら呟いた。
悔しさと同時に、ともに戦ったセコンド陣、応戦してくれた大勢の仲間に対する申し訳なさ。他にも、さまざまな感情が複雑に入り混じりそう呟いた。
なぜ、負けてしまったのか――と。
隣に椅子を並べて座った加藤が、右目上のアイシングをする拳四朗に話しかけた。
「悔しい気持ちはわかる。でも、恥じるような戦い方はしていないのだから、堂々としていれば良い。良い時は、誰だって堂々と出来る。負けた時こそ大事だから」
加藤はこの時、思い返していた出来事があった。
3年8ヶ月前、同じように目を腫らし、顔中傷だらけで控室に戻った"あの日"の出来事だ。
試合直前の控室の様子。「チーム拳四朗」で円陣を組み、関係者全員で勝利を誓いリングに向かうのが恒例だ
2021年9月22日――。
当時、無敗の世界王者として9度目の防衛戦に挑んだ拳四朗は、矢吹正道(緑)に9回TKO負け。4年4ヶ月保持したタイトルを失い、プロボクサーとして初めて挫折を味わった。
8度の防衛はいずれも圧勝に近い内容で、9度目の防衛戦となる矢吹戦も、戦前は「拳四朗の勝利」という声が多数を占めていた。拳四朗自身も、「余裕で勝てるやろな」と自信満々だった。
ところが、いざ試合が始まると、4回までの公開採点では、ジャッジ3人のうち2人がフルマークで矢吹優勢(1人はドロー)。得意の左リードジャブを的確にヒットさせたが、有効打とは認められなかった。
8回終了時には、3者とも「矢吹優勢」という窮地に陥った9回、勝負に出た拳四朗は、怒涛のラッシュで追い詰めた。しかし、矢吹が飛び込みながら前に出た際、頭突きのような形になり、拳四朗は、右瞼をカットして大出血。それでも続く10回、打ち合いを挑むも返り討ちに遭い、TKO負けを喫したのだった。
世界王者になって以降は常々、「負けたら引退」と決めてボクシングを続けて来た拳四朗は、まさかの敗戦に放心状態となり、控室ではひたすら号泣した。
同試合は2021年度の年間最高試合に選ばれた。しかし、9回のバッティングが物議を醸し、WBCからは異例の直接再戦(ダイレクト・リマッチ)の要請が届いた。両陣営合意の上、試合は翌2022年3月19日に行われた。
5回、拳四朗(左)は起死回生の右ストレートで、サンドバル(右)の顔面を打ち抜いてダウンを奪った。勢いに乗り、勝利を掴むと思われたが......(写真/北川直樹)
矢吹戦で負けた時、拳四朗は試合後の記者会見に出ることを頑なに拒み、人目を避けて逃げ去るように会場を後にしたそうだ。加藤はその時、「ボクサーとしては一流でも、人としてはまだまだ弱い」と感じたという。
試合の直前、加藤は拳四朗とこう約束を交わした。
「負けることは恥ずかしいことではない。諦めずに頑張ってきたことが大切。もし負けたとしても、試合後の記者会見は堂々と受けよう」と。
ボクシングのスタイルを見直し、「アウトボクシング・スタイル」から「ファイター・スタイル」にモデルチェンジした拳四朗は、圧倒的な強さを見せつけて3回KO勝利し、ベルトを取り戻した。
ただし、勝利したことで「敗者として会見に臨む」ことはなかった。以降も、世界戦の連勝記録を「7」まで伸ばすなど、拳四朗は負け知らずのままサンドバル戦、「2025年7月30日」を迎えたのだった。
試合後の控室で、加藤(右)は拳四朗(左)に、「良い時は、誰だって堂々と出来る。負けた時こそ大事だから」と諭した
初黒星を喫した"あの日"からおよそ3年10ヶ月――。
拳四朗は、プロボクサー人生で2度目の敗北を喫した。
同時にそれは、加藤と交わした約束を果たす時でもあった。
「自分、なに聞かれるんかな」
拳四朗は、控室を出て記者会見場に向かうエレベーターの中で、頭に両手を乗せながら話した。
「涙は見せないこと。堂々と胸を張って席に着こう」
加藤は、視線は合わせないまま、一言だけアドバイスした。
拳四朗は、黙ったままだった。
試合後、大勢の報道関係者の待つ会見場に向かう加藤(左)と拳四朗(右)。拳四朗はエレベーターの中で、落ち込む気持ちを切り替えた
「ただいまより、寺地選手の、試合後記者会見を始めさせていただきます」
時刻はすでに午後11時半過ぎ。会見場には大勢の記者が、帰る事なく、「拳四朗のいまの心境を直接聞くために」と到着を待っていた。
「サンドバル選手は、ほんと強くて、『崩しきれなかったな』というのはあります。強かったです」
―― 事前に想定していた、サンドバル選手の印象や、戦い方について
「違った所はあまりないとは思うんですけど、思ったより崩すのが難しかった、というのはあると思います」
―― 5回に奪ったダウンについて
「練習していたタイミングのワンツーではあったので、『練習通りにいった(出来た)』という感じではありました。タイミングよく、たまたま入った感じです」
代表質問が終わると、各記者による質問が始まった。
判定結果の出る前に見せた涙、感情について聞かれた拳四朗は、「採点は厳しいかなとは思ったので『負けたかな』とは思いました」と答え、「相手の方が上手だった」と、素直に敗戦を認めた。
一緒に出席した加藤は、拳四朗が劣勢に立たされた事について、「相手はかなり研究してきた。途中で何か(戦術を)切り替えるプランはなかったのか」と聞かれると、
「足を使って間合いを変えたり、接近戦で圧力をかけたりと、取り得る策は講じた。しかし、結果的に裏目に出て、拳四朗自身に迷いを生じさせてしまった。サンドバルの試合全体をコントロールする力は、予想を上回っていた。リング全体を支配する力においても優れていた」
と、参謀を任された自身の力不足を真摯に受け止めた。
会見の最後、拳四朗は
「今後のボクシング人生について、どんなふうに考えていらっしゃいますか」
と、進退についても聞かれた。
「いまは『何も考えられない』ですかね、はい」
拳四朗は、やはり落ち着いた口調で答えた。
記者の質問に対して、終始落ち着いた口調で答えた拳四朗。会見拒否して会場を去った3年10ヶ月前からは、人としても大きく成長した(写真/北川直樹)
■傷だらけの成長――勝つって、ほんまに大変なことですね
記者会見を終えて、ふたたび控室に戻った。拳四朗に、どんな気持ちで壇上の席に座っていたのかを聞くと、
「意外と、淡々といけましたね。頑張りました、2回目なので」
と答えて笑顔を見せた。
記者会見で見せた笑顔とは少し違う、肩の荷が下りた安堵の表情に見えた。
「試合を見せるだけでなく、最後の会見まで含めてやり切ることが、プロとしての仕事だと思う。拳四朗は、やるべき準備はすべてして試合に挑んだ。長くボクシングを続けていれば、良い時ばかりではない。今日負けた事も、必ず成長につながるはずだから」
加藤はそう話して拳四朗を労(ねぎら)った。拳四朗は、「でも......勝つって、ほんまに大変なことですね」と答えて大きく深呼吸した。
記者会見を拒否して会場を逃げるように後にしたあの日の拳四朗の姿はなかった。
「これ、食べても良いっすか」
拳四朗は、控室にあるスタッフ用の余ったハンバーグ弁当を見つけると、美味しそうに食べ始めた。右側の顎付近が大きく腫れて来て痛みもあるはずだが、会見を終えて気が抜けて、よほどお腹が空いて来たのか、お構いなしに食べ続けた。
拳四朗に、「今夜はどのように過ごすのか」と聞いてみた。
「意外といつもと変わらず、普通に過ごせそうな気がしていますね。二匹の猫に癒されながら。でも、顔見たらびっくりするやろな、『だれ!? おまえ』って」
冗談混じりに答えると、加藤もようやく笑顔を見せた。そして、「もし今日、『記者会見は受けません』と答えていたら、おそらく自分、ぶん殴っていました」と話し、ファイティングポーズをして見せた。拳四朗はすかさず、
「殴っても大丈夫っすよ。これ以上、顔も変わらんと思うんで」
と答え、「次はデザート!」とばかりにドーナツを口の中に放り込み、腫れた頬をさらに大きく膨らませた。
スタッフ用の余ったハンバーグ弁当を食べる拳四朗。試合後は盛大な祝勝会に参加するのが常だったが、この日の夕食はこれで終わりだった
控室を出る直前、拳四朗(左)と加藤(右)は、カメラを向けても嫌な顔はせず、写真撮影に応じてくれた。勝利した時よりも、ある意味貴重な一枚
取材・文・撮影/会津泰成
記事提供元:週プレNEWS
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