ドブネズミ捕獲大作戦!(前編)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
東京に生息するドブネズミが「変異株のるつぼ」となってしまう恐れはないのか?
東京オリンピックの開催を控えた、2021年7月上旬。仕事帰りにふと見かけたある光景から、ひとつの疑念が浮かんだ。それを確かめるべく始まった真夏の"大捕り物"、その名も「ドブネズミ捕獲大作戦」!
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■2021年、夏、目黒1年延期された東京オリンピックの開催を控えた、2021年7月上旬のある夜のこと。仕事を終えた私はいつも通り、ラボのある東京・白金台から目黒駅に向かって、目黒通りを歩いていた。当時の私はタバコを吸っていて、目黒駅手前を右に曲がったところにある駐車場で一服することをルーティンとしていた。
ちょうど私と入れ違いに、数人の若者たちが駐車場から出てくる。どうやら彼らは、その駐車場で「路上飲み」をしていたらしい。「飲食店で飲み食いすると『密』だから」ということを理由に、「だったらコンビニで買い出しして、路上で飲みましょう」という、当時流行っていた飲み会のスタイルである。
目黒のある駐車場で目にした「路上飲み」の痕跡。筆者はこれを見て、ある作戦を思いつく。
私はタバコをくゆらせながら、彼らが駐車場に残していった食べ物や飲み物をぼーっと眺めていた。どれも食べかけ、飲みかけで、おそらくまた戻ってきて飲み食いするつもりなのだろう。スマホを片手にそれを眺めていると、そこに不意に、小さな影が複数群がってきた。
ん?? と、スマホを伏せて、それに目を凝らす。
それはドブネズミだった。ネズミが数匹、地べたに置かれた食べ物や飲み物をついばんでいた。東京の街中にネズミが出没することそのものは、さほど珍しいことではない。それが夜間なら尚更である。
その様子を遠目に眺めながら、1本のタバコを吸い終え、携帯灰皿に吸い殻を入れたくらいのタイミングで、数人の若者たちが駐車場に戻ってきた。気配を察したネズミたちは、さっと姿を消す。
そしてその若者たちは、ほんの数秒前までネズミがそれをついばんでいたことに気づくこともないまま、その地べたに置かれていた食べ物をつまみ、やはり地べたに置かれていた缶ビールを飲み始めたのである。
その一部始終を見ていた私は、反射的に「うわ、きったな」と思う。それはそうである。しかしまあ、一瞬のことだし、知らぬが仏。3秒ルール。知らなければ特に害もあるまい、と思い、その若者たちに声をかけることもなく、その場を後にした。
■東京オリンピックによって、東京が「変異株のるつぼ」に...!?2021年の7月と言えば、主流の新型コロナの変異株が、アルファ株からデルタ株に急速に置き換わりつつあった時期である。日本も流行の第5波に入りつつある頃であり、東京は緊急事態宣言の下にあった。
そして、私たちG2P-Japanも、デルタ株についてのプレプリントを6月に速報し、『ネイチャー』に投稿するために追加するデータを揃えていた(62話)。
その頃、新型コロナウイルスが、ミンクやネコなどの、ヒト以外の動物にも感染することがわかり始めていた。感染実験にはハムスターも使われているし、ネズミも感染することを示す論文も報告されていた。
――と、そんな論文を読んでいると、先日の目黒の駐車場のひとコマが不意に頭をよぎる。
......もしあの駐車場で「路上飲み」していた若者たちが、新型コロナに感染していたら? そして、彼らが飲み食いしていた食べ物やビールの缶に彼らの唾液がついていて、それをネズミたちがついばんでいたら?
その頃にはちょうど、オリンピックを控え、選手や報道関係者など、オリンピックに関係する人たちが、世界中のいろいろなところから東京に集まり始めていた。
また、新型コロナの変異株に目を向けると、デルタ株が世界的な主流になりつつあるものの、南アメリカ大陸でじわじわと流行するラムダ株(45話)や、アメリカ・ニューヨークを中心に広がるゼータ株やイータ株など、まだまだ群雄割拠の状態にあった。
そのような状況から、当時は、「オリンピックで世界中から人が集まることで、世界中のいろいろな変異株が東京に持ち込まれ、東京が『変異株のるつぼ』になってしまうのでは? そしてそれによって、まったく未知の変異株が生まれてしまうのでは?」という懸念が、まことしやかにささやかれ始めていた。
「オリンピック関係者は行動が制限されているし、抗原検査やPCR検査もして管理下にあります。市井の人たちとの接触はないので、そんな心配はありません。大丈夫です!」というのが、その疑念に対する回答になっていたはずだ。
......しかし、本当にそうだろうか?
オリンピックに関係する「人たち」はそうだとしても、彼らとなにかしらの形で接触できる生き物がいたら? たとえば、まさに私が目黒の駐車場で目にしたように、ドブネズミなどとなにかしらの形で接触があり、ドブネズミが新型コロナに感染する可能性はないのか?
「人間」は管理下にあっても、ドブネズミのような「野生動物」はそれにかぎらない。そうなると、われわれの目の行き届かない、ドブネズミのような野生動物の間でさまざまな変異株の感染が広がり、人間ではなく、東京に生息するたくさんのドブネズミこそが、「変異株のるつぼ」となってしまう恐れはないのか?
――と、今から思い返せばいささかフィクションめいた発想ではあるが、当時の私は、「その可能性はゼロではない」と考えた。
■「ドブネズミ捕獲大作戦」発進!そこで私は、上記のような仮説を、当時の私の研究室のダイナモのひとりであったポスドクのYに伝え、東京近郊でネズミなどの害獣を駆除する業者を調べてもらった。
すると彼は、東京大学の先生との共同研究で、東京都内のドブネズミを対象とした微生物調査をしている、Iという会社のTという人を見つけてきた。
7月13日の夜。私はすぐに、T氏にメールを送る。すると翌朝にT氏から、とても丁寧で、かつ前向きな回答が届く。実は同じような方法でメールをいくつかばら撒いたのだが、回答をくれたのはT氏だけだった。
それから私は、T氏と電話し、この依頼の目的を改めて口頭で説明した上で、I社の協力を仰いだ。T氏曰く、飲食店街の屋外で路上生活するネズミたちは、毎日出る生ごみをアテにして生きているらしい。
つまり、やはりその中に新型コロナウイルスが混入していれば、そこからネズミが感染し、東京都内に生息するネズミたちの間で感染が広がる可能性も捨てきれない、ということだ。
そのようにして、にわかにラボが慌ただしくなり始める。
そしていつの間にか、この作戦には名前がついていた。名付けて、「ドブネズミ捕獲大作戦」。
※後編はこちらから
文・写真/佐藤 佳 イラスト/PIXTA
記事提供元:週プレNEWS
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