【サッカー日本代表 板倉 滉の「やるよ、俺は!」】第29回 板倉滉のターニングポイント、仙台への移籍
ベガルタ仙台時代の板倉滉
北中米W杯出場へ王手をかける日本代表のDFリーダーとして、今やその動向が世界中から注目されている板倉滉。しかし、かつてはJ1での出場機会を求め、もがく時期があった。キャリアの分岐点となった仙台へのレンタル移籍を振り返る。
■出場機会を求めて、仙台入りを即決人生において、ターニングポイントを迎えることが何度かある。僕らアスリートは、若い頃から、その後の選手生命を左右するような岐路に立たされることが多い。
僕にとって、ベガルタ仙台へのレンタル移籍は大きなターニングポイントだった。
プロ入りから3年目、川崎フロンターレでの出場試合はわずか7試合。幼少期から育ててくれたクラブへの愛はあったけれど、当然、出場機会も求めていた。そうして、他クラブへのレンタル移籍をフロントに直訴した。いくつかのチームに話をしてくれたのだと思う。
しばらくすると、当時J1のベガルタ仙台から声がかかった。渡邉晋監督と丹治祥庸強化育成本部長(共に当時)が会いたいという。しかも、わざわざ東京まで出向いてくれたのだ。2017年の暮れに東京駅近くのホテルで、僕の代理人も含め、4人で面談することになった。
視界に丹治さんが入ったときに感じた第一印象は「うわ、めっちゃ怖そうな人が来た」。とにかく見た目がイカツかったのだ。かなり緊張したけれど、いざ話してみると、非常に温和な方だった。
僕が欲しいと、ストレートに伝えてもらえた。渡邉さんは「仙台に来て、スタメン確定というわけではない。競争もある。でも、ぜひ来てほしい」と。おふたりの誠実さと熱意をひしひしと感じ、迷いなど生まれなかった。「お願いします」とその場で即決した。
後に知ったことだが、渡邉さんはリーグ開幕戦で、僕をスタメン起用することはほぼ決めていたそうだ。確かに、AFC U-23選手権中国2018(18年1月)では、森保一監督の下で左CBとして出場していたこともあり、仙台でやっていける自信はあった。
当時は、とにかく試合に出たい。その一心で、仙台で開花しなければ、サッカー選手としては終わりだという覚悟の下、気合いを入れてキャンプインした。
ベガルタ仙台のみんなは温かく迎え入れてくれた。川崎で一緒だったMF中野嘉大選手が先にローンで移籍していたこと、MF野津田岳人選手やGKシュミット・ダニエル選手ら、比較的近い世代の選手も多かったおかげで、すんなり溶け込むことができた。
仙台の街もすぐに気に入った。近くの定食屋さんでうまい飯を食べた後、仙台駅近くのカフェでお茶をしたり、クラブが提携している銭湯でゆっくり風呂に浸かったり。チームメイトたちとは、ずっと一緒に時間を過ごしていた。
当初はボランチを任されていたけれど、次第に左CBへシフトしていった。練習試合でのスタメン起用も頻繁で、自分なりに手応えをつかみつつあった。
■調子づいた先の一発退場と大ケガそうして迎えた18-19シーズンの第1節(2月25日)。僕はプロ生活で初となるスタメン出場を果たした。会場はホームのユアテックスタジアム。相手は柏レイソルで、ちょうどFW伊東純也君が所属していて、マッチアップのタイミングもあった。極度の緊張を通り越し、試合を通じてなぜかフワフワとした感覚があり、自分のプレーを出し切れたわけではなかった。
だが、この日は大きなチャンスが巡ってきた。後半8分、MF古林将太選手からいいクロスが上がってきて、プロ初のヘディングゴール。同時にJ初ゴールでもあった。結局、これが決勝点となり、1-0のクリーンシートに。今までの不遇がすべて清算されたような感覚で、一生忘れられない日になった。
とはいえ、そこから破竹の勢いだったかというと、そうでもない。3月14日、YBCルヴァンカップ第2節の横浜F・マリノス戦に先発するも、38分に相手選手へのスライディングで退場処分を食らった。しかも、右足首の靱帯損傷で全治約7週間のケガという悪いおまけ付き。
チームには大変な迷惑をかけたものの、同時に自分にとっては学びにもなった。復帰後は、この失敗を糧に〝フォア・ザ・チーム〟の精神で練習に打ち込んだ。チームからはビデオチェックしながら、細かいポジショニングやラインコントロールの指導を徹底的に受けた。
戦術理解度が乏しく、チームを俯瞰で見ることもなく、ただ目の前の相手をどれだけ困らせることができるか、それに終始していた僕の意識は大きく変わっていった。
このシーズン、最終的にはリーグ11位に終わったが、天皇杯ではクラブ初となる決勝まで駒を進めることができた。成績に満足はしていないが、やりがいは感じていた。初めて年間を通して出場できたチームになったからだ。今でも仙台に対する思い入れは深く、僕を育ててくれた〝第二の故郷〟だと思っている。
19年にマンチェスター・Cへ移籍、すぐさまローンでオランダのフローニンゲンへ移った際も、初めての海外で孤独感に襲われて、丹治さんには時折電話をしていた。「丹治さん、もう日本に帰りたいです」。
すると「いつでも帰れる場所はあるから大丈夫。でもおまえは日本を代表するような選手にならないとダメだ。だから、そこで頑張れ」とエールを送ってくれた。あの言葉がなければ、今も海外でプレーできていなかったかもしれない。
あのとき、出場機会を求め、丹治さんと渡邉さんの誠実さと熱意を信じて、ベガルタ仙台を選んで本当に良かった。
板倉滉
構成・文/高橋史門 写真/アフロ
記事提供元:週プレNEWS
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