月間販売数15万食!割烹料理の技が光る人気弁当店 大手に負けない戦略とは:読んで分かる「カンブリア宮殿」
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割烹料理店の丹精な技が光る~月間15万食も売れる人気食
東京・江東区。亀戸天神の近くの割烹料理店「亀戸升本」には、七五三のお参りをした家族連れが食事会に訪れていた。
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お祝いの「七五三会席」(1人6500円)のメインは、升本の名物「亀戸大根あさり鍋」。江戸東京野菜の一つ、亀戸大根とあさりを使ったこの周辺の郷土料理だ。
そんな割烹料理の技を生かした弁当が、いまデパ地下などで人気を呼んでいる。「伊勢丹新宿店」にある「亀戸升本」伊勢丹新宿店の売り場では10時の開店直後から弁当が次々と売れていき、昼前に品切れとなるものもある。
「コロナが明けてから好調ですね、コロナ前と比べると(売り上げは)倍ぐらいになっています。」(店長・中村靖)
一方、東京駅の「大丸東京店」で1000種類もの弁当が並ぶ激戦区「お弁当ストリート」では、升本の「すみだ川あさり飯」(1458円)は売り上げ第6位を誇っている。
2023年の持ち帰りの弁当や総菜の市場規模は約11兆円。コロナ禍以降、多くの企業がこの市場に参入し、競争は激しさを増している。そんな中で升本の売り上げはコロナ禍の落ち込みを盛り返して現在約22億円と、多くのファンをつかんでいる。
「我々はあさり鍋を出すだけが仕事じゃないんです。常に優れた技術、商品、サービスで感動を創造する。いつの時代でも感動を創らないといけない」と言うのは、升本フーズ社長・塚本光伸(73)だ。
升本フーズの前身は明治後半の1905年に創業した酒屋。焼野原となった戦後は大衆居酒屋へと変身。高度成長期には大衆割烹に姿を変えながら、亀戸で商いを続けてきた。
弁当事業を始めたのは2001年と、比較的遅い。百貨店では「伊勢丹新宿店」「大丸東京店」など4店舗で直営店を運営。郊外にも出店しているが、店舗数は百貨店と合わせて10店舗と決して多くはない。そこには大手とは違った中小企業ならではのやり方が隠されている。
「弱者の戦略というのは、大手ができないことではなくて、大手がやらないことをやることです。大手は何でもできますよ、人材もそろっているし研究機関もある。だけど、やると採算が合わないもの、うちの体力や体格でできるもので戦おうとしています」(塚本)
和食の技、伝統野菜、健康志向~大手に負けない!弱者の戦略
〇升本流弱者の戦略1~割烹料理のノウハウで品質アップ。
東京・墨田区の弁当工場「升本健康厨房」では、割烹料理店ならではの和食の技を随所に取り入れている。
例えば7種類の野菜が入った煮物は、食材ごとに煮方や味つけを変えている。たけのこは肌の白さが残るよう薄い色で味をつけ、逆にれんこんは色を付けるため、色が濃いたまり醤油を使う。
にんじんは素材の甘みを生かすため醤油は控えめ。こうして別々に炊いた食材を一つに盛りつける「炊き合わせ」という手の込んだ和食の調理法だ。
「全部違う味に仕上げているんです。そこが料理店の仕事で、それぞれに合った味付けがあるからです」(総料理長・向後信之)
だしが染み出る玉子焼きは1本1本、職人が手作り。
多い日は5000本も焼くという。ポイントはあえて中まで火を通さないこと。焼いた後にスチームで蒸す工程を加えている。
「スチームで蒸すことで水分も含んでくるので、食べた時にジューシーになる」(向後)
かまぼこなどの練り物も手作り。使うのは「たまもと」と呼ばれる隠しアイテムだ。卵黄にサラダ油を少しずつ入れて混ぜていく、マヨネーズから酢を抜いたようなもの。この「たまもと」と片栗粉をつなぎに使うことで、プリッとした食感が生まれる。
こうした料理屋の手間暇をかけたやり方で、品質の差別化を図っているのだ。
「何から何まで手作りでやっているので、ここまでは(他社は)絶対にできないと思います。やれるものならやってみろ、という感じです」(向後)
〇升本流弱者の戦略2~農家とウィンウィンな関係を
升本の全ての弁当に欠かさずついているのが亀戸大根のたまり漬けだ。
亀戸大根は江戸時代の後期から亀戸周辺で栽培されていた江戸東京野菜の一つ。長さは30センチほどと小ぶりで、身も細いのが特徴だ。52種類ある江戸東京野菜だが、ふだん目にするのはほんの一握り。塚本はその一つ、亀戸大根を今に残そうとしている。
「亀戸でお店をやっていて、地産地消で亀戸大根。これは大手はやらない。亀戸のオンリーワンじゃないですか」(塚本)
升本で使う亀戸大根を栽培しているのが東京・江戸川区の「中代農園」。冬場の栽培は亀戸大根だけ。11月から4月ごろまで月に約2000本を収穫し、その全てを升本が買い取っている。
「昔の野菜を作るという機会を与えてもらって非常に助かっています。升本さんのように大量に引き取ってくれるところがないと、農家自体は作れないんです」(中代正啓さん)
農家にとっては、一定の値段でまとめて買い取ってもらえれば収入も安定する。升本も江戸の伝統野菜を使うことで、店の看板としてアピールできるのだ。
「『ここの温泉のお湯を使って作った温泉饅頭、うまいんです』と言ったら食べるじゃないですか。その場所に来た時の喜びでもある。そういう感動を味わってもらいたい」(塚本)
〇升本流弱者の戦略3~健康志向に特化した商品開発力
東京・港区の高級スーパー「ビオセボン」麻布十番店。フランス発祥のオーガニックスーパーで、取り扱うのは有機栽培の野菜や無添加の加工食品など健康志向の商品だ。そこに升本が肉や魚、白砂糖などを使わない、玄米や野菜中心の弁当を卸している。
仕入れ担当の「ビオセボン・ジャパン」商品本部本部長・浅田哲史さんは、弁当を作ってくれる業者探しに苦労したという。行きついたのが升本だった。
「一番大事なのは、社長を含めて見ているベクトルが一緒だったこと。食べておいしい、かつ安心して食べられることを升本さんは大事にされている」(浅田さん)
「ビオセボン」の要望は、動物性の食材などを使わないということだった。そんな要望でも、升本なら和食の技で応えられる。
例えば動物性のかつおだしを使わず、昆布だしで炊き上げた人参。これに加えるのは、えのきを乾燥させて粉にしたもの。かつお節によく似た風味がするため、味に深みが出る。
升本にはこうした和食の引き出しが数多くあるため、「ビオセボン」の要望に無理なく対応できた。
こうした弱者の戦略で、約22億円の売り上げの8割近くを弁当事業で稼ぎ出している。
利は喜びの陰にあり…~客も従業員も幸せになる商売
「亀戸升本」の割烹のラストオーダーは午後7時半。午後9時には店を閉めてしまう。従業員の暮らしを充実させるため、塚本が導入した。
「帰って子どもと話せる時間があるし、保育園に送ってから出勤しても大丈夫なようにフレックスにしてくれる。そういう面ではありがたいです」(料理長・長橋誠二)
塚本は1951年生まれ。両親は戦争で焼けた酒屋を居酒屋に変えて切り盛りしていた。幼いころの思い出は、朝から晩まで働き詰めの両親の姿だった。
「私はこの商売が大嫌いでした。親と夕飯を一緒に食べた記憶がないんです。親は朝から夜私たちが寝るまで働いている。それでも特別豊かではなかった」(塚本)
身を粉にして働いても暮らしが豊かにならないことに嫌気がさし、高校卒業後は家出同然で大阪へ。だが、ほどなくして父ががんを患い危篤に。「後を頼む」という父の最後の言葉に、「『俺はやらない』と言ったんです。すると母親は泣いてひっぱたいてくるし、親戚からは罵倒された」(塚本)。周囲から説得され、嫌々家業を手伝うことになった。
30代になると店を母と姉に任せ、勝手に不動産事業の会社を設立、大きな利益を上げた。だが、バブル経済の崩壊で事業に失敗。4億円の借金を背負ってしまう。
「もう倒産しかないと思いました。ちょうど4月の桜のきれいな時だったんです。もう俺の人生で、桜の木を笑顔で見ることはないな、という思いでした」(塚本)
そんな時、知人の紹介で仕事が舞い込む。結婚式場などで有名な「目黒雅叙園」で社員食堂を運営する仕事だった。最悪の状況を、嫌いだった飲食業に救われたのだ。
「びっくりするようなチャンスが急に舞い込んでくる。あれほど嫌いだった飲食に救われました」(塚本)
塚本に大きな転機が訪れたのは45歳の時。当時箱根に開館したばかりの「箱根ガラスの森美術館」を訪れると、どのスタッフもイキイキと働く姿に衝撃を受けた。美術館を運営していたのは、都内を中心に17店舗の飲食店を運営する「うかい」という会社だった。
「飲食店はスモールビジネスだと思っていた。それがこんなすごいことまでやってしまうとは、『いったい自分は何をやっているんだろう』と。頭を殴られるような思いで、しゃがみ込んでしまったんですよ」(塚本)
塚本は「うかい」の創業者、故・鵜飼貞男さんに「会いたい」と手紙を送った。願いが叶い面会すると、鵜飼さんは美術館を訪れた人から届いた1通の手紙を差し出した。
それは生活苦にあえぎ、生きることをあきらめたとある夫婦が、最後の思い出にと「ガラスの森美術館」を訪れた時のこと。その幻想的な光景に心を奪われ、人生をやり直そうと決意。その後は貧しいながら幸せに暮らしているという。
手紙を読み終えた塚本に鵜飼さんは「利は人の喜びの陰にあり。人を喜ばすことは、大きな価値があるんですよ」と言った。
「本当に感動しました。飲食業が人の命まで助けるんだと。私はその時から哲学が変わりました」(塚本)
飲食の仕事に本気で向き合うことにした塚本は、客を幸せにするにはまず従業員を幸せにすべきだと考えた。
「自分たちが幸せになるために仕事をしようよ、ということです。幸せにするためにどうしたらいいか。いい環境、いい条件、いい給料をもらうことが必要」(塚本)
飲食業は「長時間労働、休みが少ない、給料は安い」が当たり前だった。塚本はまず、従業員がしっかり休めるよう、土日が休みの社員食堂の事業に力を入れた。さらに、忙しくて料理人が休めていなかった新宿や銀座などの料理店を閉め、工場で決まった時間に働ける弁当事業を新たに始めた。
従業員はみな、以前より家族と過ごす時間が増え、給料もよくなったという。
和正食(弁当事業)料理長・廣瀬雄一郎は、「お店だと温かいものを提供するじゃないですか。お弁当だと冷たいものをおいしく提供しなきゃいけない。その技術と工夫が面白いです」と、店舗での仕事とは違うやりがいを見つけていた。
出戻り従業員もイキイキと~和食の技を生かした冷凍食品
升本フーズがコロナ禍を機に新たに始めた冷凍食品の事業。看板メニューの「亀戸大根あさり鍋」を家庭でも手軽に……と始めた。
他にも8種類の和漢食材を使った「玄米がゆシリーズ」や、高級な「どんこ」というシイタケを使った「緑豆はるさめ麺『どんこ』」などのオリジナル商品がある。「苦い」というイメージの薬膳料理を和食の技術で食べやすく仕上げた冷凍シリーズだ。
これらの商品を開発した星野宗は、升本で2回、送別会を開いてもらったことがあるという。
「おおらかな社長なので、戻ってきたいと思った人は拒まない。ちょうど自分自身も結婚して2人目の子どもが産まれる時だったので、『何でもやりますから使ってください』と言って(笑)」
2回目に戻った際、塚本から「薬膳料理をやってみないか」と提案されたという。期待に応えるため、星野は薬膳を一から猛勉強した。
「いくらチャンスを与えてもらっても、勉強しなかったり、怠けていたら、このチャンスを生かすことはできない。自分の料理の幅も広がったかなと感じます」(星野)
星野は冷凍事業の厨房責任者を務めている。出戻り社員でも、やる気を引き出してチャンスを与える。それが塚本流だ。
※価格は放送時の金額です。
~村上龍の編集後記~
塚本さんは、幼いころ、飲食業に嫌悪感を抱いた。高校卒業後、家出同然で大阪に行き「馬賊になる」と言って中国語を学んだりした。それから30年、出会いがあった。「うかいグループ」感動して社長に手紙を出す。「10分だけなら」。若い人が一生懸命働いていた。既に40半ばを超えて、初めて飲食業の「光」を目にした。「あなたのところへ来た人を来たときよりも幸せにして帰しなさい」客の喜びを自分の喜びにできたとき、飲食業を営む者には、他の事業にはない「光」が差す。
<出演者略歴>
塚本光伸(つかもと・みつのぶ)1951年、東京都亀戸生まれ。高校卒業後、大阪へ行くが、父が倒れ店を手伝う。同時期に、日本大学法学部(夜間)へ進学。1988年、升本フーズを設立し、飲食店を数多くオープン。1998年、本店が全焼、その後、江戸料理店として再建。2001年、弁当製造販売事業を開始
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記事提供元:テレ東プラス
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