観音菩薩が思い至った自分を自分たらしめている五蘊皆空とは?【般若心経】
多くの宗教・哲学の根本的なテーマに「自己の究明」があります。〈私〉とは何か。自明のようですが、難しい問題です。自明のように思えるのは、通常は自分と他人を混同はしないからでしょう。「私が私である根拠」はどこにあるのでしょうか。
その根拠とされるのが「五蘊(ごうん)」です。蘊は難しい字ですが蘊蓄(うんちく)の蘊で、「蓄える、奥深い」などを意味します。仏教では、〈私〉という主体を構成する基本要素というような意味で使います。
最上階で得た「皆、空なり」というヴィジョン自分を自分たらしめているのは、「体がある」「感覚がある」「イメージを持つ」「深層意識がある」「判断をする」という五つだと、観自在菩薩は思い至りました。これが五蘊で、般若心経ではそれぞれ「色(しき)」「受(じゅ)」「想(そう)」「行(ぎょう)」「識(しき)」として登場します。
「五蘊皆空」は、普通に読めば「(自分を構成する)五蘊は皆、空なり」です。しかし、原典によれば、まず「(我が身は)五蘊である」と見極め、次に「それらは空である」と見極めたのです。同じように思えますが、大きな違いです。
先ほどの4階建てのたとえでいえば、「(我が身は)五蘊なり」までは、舎利子のフロアでも到達しています。そこから1階登った最上階で得られるヴィジョンが「皆、空なり」だったのです。
「空」は、後ほど述べていきますが、般若心経の、そして仏教のきわめて重要な言葉です。ここでは、それは「〝空しい〟などという否定的・消極的な言葉ではなく、限りなく肯定的・積極的な言葉」だということだけ述べておきましょう。
【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 般若心経』
著:宮坂宥洪 日本文芸社刊
執筆者プロフィール
真言宗の僧、仏教学者。1950年、長野県岡谷市生まれ。高野山大学仏教学科卒。名古屋大学大学院在学中、文部省国際交流制度でインド・プネー大学に留学し、哲学博士の学位取得。岡谷市の真言宗智山派照光寺住職。
記事提供元:ラブすぽ
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