般若心経が「小さな大経典」として広まり親しまれた証とは?【般若心経】
般若心経がわが国に伝わった時期は、明確にはわかっていませんが、唐に渡って玄奘に師事し、660年に帰国した法相宗(ほっそうしゅう)の僧、道昭(どうしょう)が持ち帰った可能性が高いとされています。以来、わが国でも、般若心経の研究が盛んになっていきました。時代が下って江戸時代になると、字の読めない庶民でも般若心経を唱えられるようにと「絵心経」というものもできました。「釜」の絵を逆さに書いて「まか」と読ませるなど、絵で読みかたを記した般若心経です。ユーモラスな江戸庶民のセンスとともに、字が読めなくても、尊い仏の教えに触れようとした庶民の心情が伝わってきます。
実は、わが国に広まった般若心経は、玄奘訳を基本としながらも一部が違う「流布(るふ) 本」といわれるものです。流布本には、玄奘訳にない「一切」の文字が入っています。
そのため、260文字の玄奘訳に対し、流布本は262文字(本文)です。
最後の「掲諦、掲諦…」の表記も、玄奘訳は「掲帝、掲帝、波羅掲帝…」ですが、そのままの表記の流布本はなく、しかも「羯諦」「波羅」など多様な表記と組み合わせが見られます(本書での漢字表記と読みかたは真言宗智山派に伝わるものです)。多様な流布本が登場したのも、それだけ般若心経が「小さな大経典」として広まり、親しまれたことの証(あかし)といえるでしょう。
【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 般若心経』
著:宮坂宥洪 日本文芸社刊
執筆者プロフィール
真言宗の僧、仏教学者。1950年、長野県岡谷市生まれ。高野山大学仏教学科卒。名古屋大学大学院在学中、文部省国際交流制度でインド・プネー大学に留学し、哲学博士の学位取得。岡谷市の真言宗智山派照光寺住職。
記事提供元:ラブすぽ
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