"天才チンパンジー"アイが人類に遺したもの
イチオシスト

アイ(奥)は2000年に、人工授精によってアユムを出産した。父は同所内のチンパンジー・アキラ(手前)
1月9日、言葉や数を理解できたチンパンジー・アイが亡くなった。アイが暮らしていた京都大学の機関がその死を「逝去」と表現したところにも、彼女の特別さがうかがえる。アイの偽らざる実像と、彼女が明らかにした数々の成果を振り返る。
【チンパンジー社会の一員になる】1977年に1歳で京都大学霊長類研究所(霊長研。現、京都大学ヒト行動進化研究センター)にやって来たアイは、知的な能力を探る実験に参加してきた。アイとさまざまな研究を共にしてきた、名古屋大学教授の川合伸幸(かわい・のぶゆき)先生はこう語る。
「僕がアイと研究をしていた頃の霊長研にはアイを含めて11人のチンパンジーがいたのですが、誰がいつ、どのチンパンジーと実験するかをまとめた時間割みたいなものがありました。実験のある日は朝9時に1時間目が始まって......お昼ごはんをあげることも多かったです」
実験のない時間帯は何をしていたのか?
「チンパンジーの生息環境を再現したタワーがある、運動場にいることが多かったですね。実験の時間が来て、下から僕が『アイ、行こう!』と呼ぶと、下りて来てくれるんです。
サルは小さいからケージ(檻)に入れて台車でゴロゴロと運ぶんですが、チンパンジーはヒトに匹敵するほど大きいので、一緒にトコトコと専用の通路を歩いて実験室まで行きました」

川合伸幸先生
かわいい! ちょっとやってみたいかも。
「ところが、誰にでもできるわけではないんです。新しく来た研究者が同じように呼びかけても、無視されるか、ツバでも吐きかけられるのが関の山。アイたちチンパンジーの社会の一員として認められないといけないからです。
チンパンジーのコミュニティにはぼんやりとした序列があるんですが、僕たち人間の研究者も、最初はそこに下っ端として入っていかなければいけません。
そして、ごはんをあげたりしていると徐々にランクが上がっていって、メンバーの一員として認められる。こうなって初めて、実験ができるんです。
群れの一員と認められると、追いかけっこや毛づくろいをしてくれるようになりました。僕はヒトだから、そんなに毛は生えていないんですけどね。こちらも、こっそり人間の飲み物を分けてあげたりしていました」
川合先生は、研究者として、アイの粘り強さにはかなり助けられたという。
「長いときだと、100回の試行を5セット繰り返して、1日で500試行もやったことがあります。普通のチンパンジーは100回くらいやった段階で飽きてしまうんですけど、アイは好奇心が強くて根性があり、しっかり付き合ってくれました。
息子のアユムの育児に忙しい時期も、アユムを抱いたまま実験に参加してくれるから、こっちが申し訳なく思ったくらいです」
【動物とヒトはつながっている】ところで、チンパンジーなのに「匹」ではなく「人」と数えるんですね。
「ええ。霊長研には、チンパンジーをヒトと同じように扱う文化がありました。そもそもチンパンジーは、ヒトと非常に近い種ですしね。
とはいえ、研究者の中には『ヒトはヒト、動物は動物』と、スパッと線を引くタイプの人もいたんですが、私が見る限り、そういう研究者はうまくいってなかったですね。
というのも、アイたちがやる気を出さないから。実験室までは来るけれど、ゴロンとふて寝しちゃって、何を言っても動かなかったり。やっぱり、チンパンジーの一員になる意識が必要だったと思います」
川合先生は、各地域における霊長類を含む動物の扱いとその文化圏の宗教、そしてサルの生息域の間には関係があると考えている。
「日本を含むアジアはおおむね多神教の文化圏で、動物の神様もたくさんいますが、ひとつの共通点として、サルが生息していることが挙げられます。サルは暖かい地域の動物で、日本列島がちょうど生息域の北限なんですね。
つまり、私たちアジア人は日常的に、自分たちに姿形が近いサルを見て過ごしてきました。だから、人間を特別視する考えが弱い。
ところが、一神教の地域であるヨーロッパと北米には、野生のサルはいません。だから彼らは、ヒトと動物の連続性に気づきにくく、人間を特別な存在だと考える傾向が強いのではないでしょうか」
霊長研には多くのチンパンジーがいたが、中でも、アイとの研究によって明らかになった重大な事実は多い。
「よく知られているのは、僕ではなく松沢哲郎先生の1985年の研究ですが、これは数をシンボルとして理解できることを示したものです。
当時5歳だったアイは、その時点でも1から6までの数字を理解し、モノの数を表現できたんです。それだけでなく、アイは300種類ものサンプルの色や名称も伝えられました。
数字や言葉は、その対象と必然的な結びつきがない、恣意的なシンボルです。例えば僕たちが『リンゴ』と呼んでいる果物は、本来そう呼ばなければならない理由はありません。『これをリンゴと呼ぶ』と社会で取り決めているから通じているに過ぎない。
人間の特権だと思われていたシンボルを使う能力がチンパンジーにもあることは、当時から徐々に明らかになってはいましたが、アイはその流れに大きな貢献をしたんです」

霊長研ではアイに限らず、さまざまなチンパンジーの認知能力が調べられた。その成果のひとつとして、チンパンジーは数が理解できることが示された
川合先生がアイと行なった研究としては、記憶能力に関するものがある。
「チンパンジーの記憶力やその仕組みが、ヒトと近いことがわかりました。ヒトの記憶は、年単位で情報を保存する長期記憶と、一時的に記憶しておく短期記憶に大別でき、短期記憶の容量は『7±2』だとされています。
パッと覚えられる文字や数字は、7個前後が限界ということですね。そして僕がアイと実験をした結果、彼女の短期記憶の容量や仕組みもヒトに近いとわかり、この論文は科学誌『ネイチャー』に掲載されました。
それともうひとつ。ヒトが記憶を思い出すやり方は、歴史の選択問題のように、手がかりがある『再認記憶』と、手がかりなしでゼロから過去の出来事を再現する『再生記憶』とがあり、再生記憶のほうが難しいんですが、アイはそれもできました」
ただしもちろん、アイが完全にヒトと同じ記憶能力を持っていたわけではない。
「言葉などのシンボルが何を意味するかは記憶できても、『エピソード記憶』、平たく言うと思い出の記憶は全然ありませんでした。そのせいか、僕の職場が変わって、ある日突然アイの前から姿を消しても、あまり気にしなかったみたいですね」
【知性は社会によってつくられる】アイがそんな高度な知的能力を持っていたのは、彼女が例外的な天才チンパンジーだったからだろうか?
「いや、それは違います。アイがたまたま、学校の教科書に載ったりテレビに出たりして有名になっただけです。アイは特に算数と読み書き、記憶が得意だったわけですが、ほかのチンパンジーも、それぞれ得意分野がありました。つまり、チンパンジーたちの知的能力には、かなり個人差があるということです。
ただし、それは生まれ持ったものではなく、皆が違う訓練を受けてきた結果として生じた可能性が高い。
例えばアユムは、アイのように数字を理解することはできないのですが、それはアイほど数字の訓練をしていないからかもしれません。アイの読み書き能力も、長い訓練の末に身につけたものだったんです」
アイたちチンパンジーが、訓練によって高度な知的能力を身につけたという事実は、われわれ人間の知性についても、深い示唆を与えてくれる。
「人間は、読み書き能力やシンボルを操る力を人間だけの特別な能力だと思い込んでいますが、決してそうではないということです。ちゃんと教えられれば、チンパンジーだって身につけられるんですよ。
それは裏を返すと、僕たちヒトの知的能力は天から与えられたものではなくて、社会的な訓練や学習によって、後天的に手に入れた面が大きいということです。つまり、ヒトの知性は社会によって育まれるんです」
このほか、人間に特徴的な知的能力として、他者の心を想像できる「心の理論」を持っていることが挙げられる。
「チンパンジーがどの程度、心の理論を持っているかどうかについては議論があります。例えば、人間は他人が指をさしている方向を見ますが、そこでは『この人があちらを指さしているのは、そっちを見てほしいからだな』と心の理論を働かせているわけですね。そして、チンパンジーは指さしを理解できないといわれています。
でも、僕はそんなことはないと思う。だってアイは、僕がモノを指さして『アイ、あれ取ってよ』と言ったら、持ってきてくれましたから。
長い実験が終わると、感謝を込めて『がんばったね! ありがとう』と拍手をするんですけど、するとアイはキャッキャッ言って喜ぶんですよ。まるで『私、スゴイでしょ!』と言っているかのように。アイは人の心を、かなり理解してくれていた気がしますね」
人間が、人間自身を理解するための大きなヒントを遺(のこ)してくれた偉大な女性、アイの冥福を祈ります。
●川合伸幸(かわい・のぶゆき)
1966年生まれ、京都府出身。専門は比較認知科学、認知科学、実験心理学。1999~2001年に京都大学霊長類研究所に勤め、チンパンジーのアイと共に数々の実験を行なった。『ヒトの本性 なぜ殺し、なぜ助け合うのか』(講談社現代新書)など著書多数
取材・文/佐藤 喬 写真/共同通信社 時事通信社
記事提供元:週プレNEWS
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