〝神様〟の逆鱗に触れた初代修斗王者。「ゴッチさんがキレてしまい......」
イチオシスト
シューティング(現・修斗)の創始者、佐山サトル
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第50回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
理想の格闘技を追求した初代タイガーマスクこと佐山サトルが創設したシューティング(現・修斗)。前回に続き、この世界最古の総合格闘技団体を黎明期から支えた初代ライトヘビー級チャンピオン、川口健次をフィーチャーする。
【早すぎた秒殺劇】「シューティングは失敗から学んでいった」
初代タイガーマスク・佐山サトルが設立したスーパータイガージムの会員として第1号のシューティングチャンピオンとなった川口健次は、この競技の成長過程をそう捉えている。
何しろ前例がない競技だけに、自分たちで道を切り開いていかないといけない。何が正解か皆目見当もつかなかったので、試合をするたびに試行錯誤するしかなかった。
「結局、試合を重ねていくと、何が足りないとか、どんな練習をしていかなければならないとかわかる。さらに新しい発見があるじゃないですか」
競技として成熟するにつれ、技術やルールはどんどん変わっていく。86年6月30日、後楽園ホールで開催された第1回のプリ・シューティングは過渡期の中で行われた大会だった。その大会を現場で取材した筆者がまず感じたのは、顔面に防具(当時はプロテクト・マスクと呼ばれていた)を付けているため、選手の表情がわからないことだった。
そのことを指摘すると、川口はそうなんですよとヒザを打った。
「痛いのか痛くないのか、さっぱりわからない。それに攻めている方がプロテクト・マスクに一発ガツンと当てると、意外と手首を痛めやすかった。平(直行)さんが(手首を痛めないように)掌にスポンジみたいなものをつけていましたね」
プリ・シューティングの「プリ」とはプロになる前段階の状況を指す。設立当初からシューティングを取材してきた筆者にとって、そのプロセスはしごく真っ当に見えたが、やっている川口からすると、プリからプロに進むのも早いといわざるをえない状況だった。
川口にとって最重要視されるべきはプロ化でなく、「もっと強くなること」だったのだ。
「この世界に入って、(スーパータイガージムで教えていることを)全部学んでも、『じゃあ、他の格闘技とやって勝てるのか?』と問われたら、『勝てます』と断言できる人はたぶんいなかったと思います。たとえ有名になったとしても、弱かったらダメでしょうという考えが念頭にあったので」
シューティングを設立当初、佐山はプロ化に向けて5ヵ年計画を立てていた。「タイガーマスクがやる新・格闘技」を心待ちにするファンにとっては長すぎる時間だったといえる。そして、練習生たちもそんな先まで待つことができず、次から次へとプロレスや他団体に流出したアクションはある程度予測できたことだった。
佐山もプリ・シューティングの大会が「まだ人に見せられるレベルのものではなかった」ことを認めている。
「わたしが言いたいのは、あれ(プリ・シューティング)はあくまで練習試合にすぎなかったということですね。本物はまだまだこれからなんですよ」(昭和62年2月15日発行『プロレスアルバムNumber6「修闘 シューティング入門」』掲載のインタビューより)
その一方で、佐山の炯眼(けいがん)で実施されたこともある。例えば第1回プリ・シューティングでは、試合場は通常のロープに囲まれたスクウェアリングではなく、アマレスマットを敷いた八角形のものを使用したことだ。
89年5月18日、プロ旗揚げ戦『初代チャンピオンシリーズ第1弾』以降も、しばらくは八角形のリングが使用された。その後、会場側からの「設置に時間がかかりすぎる」というお達しでお蔵入りになってしまったが、93年からスタートしたUFCは試合場としてケージに囲まれた八角形の試合場、オクタゴンを使用している。シューティングの初期の試合場がそのモチーフになっていたのではないか。
プロ第1戦では全7試合が組まれていたが、ひとつも判定決着はなかった。中でも後半4試合は全て1R3分以内にカタがつく。試合開始は18時30分だったが、メインイベントが終わったとき、時計の針は19時54分を指していた。他の競技を見渡しても、こんなに早く終わる興行はなかなかない。
93年、パンクラスはその旗揚げ戦で″秒殺″というキャッチコピーを生むが、シューティングの旗揚げ戦は短い試合時間が話題になることは皆無だった。むしろ「エッ、もう終わっちゃうの?」という感覚で受け止められた記憶がある。見たこともないだだっ広い試合場で、ロープエスケープもなく極まる試合に納得していた者もいたが、戸惑いを覚える者も多かったことは否定できない。
極めの応酬といったやりとりを期待していたファンにとっては物足りない試合内容だっただろう。パンクラスのスタートとは4年しか違わないが、それだけ総合格闘技を見る目は未熟だったということか。シューティングは″早すぎた秒殺劇″を生み出していたのだ。
そうした秒殺劇の中でも佐山が「ベストバウト」と口にしたのは川口と横山忠志の一戦だった。スタンドの打撃戦を繰り広げた後、川口はサンボを彷彿させる飛び付きヒザ十字固めを極め、場内を最も湧かせたのだ。

1989年のプロシューティング旗揚げ戦にてプロデビューし、91年には初代ライトヘビー級王座を獲得、94年には『VALE TUDO JAPAN OPEN』に打って出た川口健次
マットサイドには佐山がシューティングを考案する際、多くのインスピレーションを与えた″神様″カール・ゴッチの姿もあった。新日本プロレスやUWF系との関係が強いイメージがあるゴッチだが、この時代は旧UWFで代表取締役社長を務め、のちにシューティングを全面的にバックアップしていた浦田昇(のちに修斗コミッショナー)と行動を共にしていた。
【「なんでこんな目にあわせられるのか?」】ゴッチは通称「ゴリラビル」(現在はK-1公認ジムのシルバーウルフが入っている)から三軒茶屋駅に近い雑居ビルに移転していたスーパータイガージムで指導にあたることもあった。すでにプロデビューを果たしていた川口も、神様の薫陶を受けた。
ゴッチと寝技のスパーリングをした際には、こんな記憶がある。
「僕が四つんばいになって、ゴッチさんが上に乗る。それから僕に『ここの体勢から動け。逃げろ』と命じる。で、逃げたのはいいけど、たまたま僕の指が鼻に入って血が出てしまったんですよ。そうしたらゴッチさん、キレてしまい、僕の頭を掴んでヒジを落としてきました」
続けてゴッチが川口を押さえ込んでからの練習では、こんなこともあった。
「ゴッチさんが片羽絞めみたいな絞め技を力強く仕掛けてきた。『ヤバい、落ちる』と抵抗したら、体を入れ換えて逃げることができたんですよ。そうしたら僕を捕まえにきたゴッチさんの指が口の中に入ってしまい、流血してしまったんですよ」
そんなゴッチと川口の攻防に周囲の者は驚きの眼差しを向けていたが、ひとりだけ指を指して大笑いしている者がいた。
佐山である。
このときすでに川口は、どんな修羅場も笑いに変えられる佐山の気質を理解していた。
「先生だけは知っていたんですよ。ゴッチさんの短気な性格を」
当時、川口は20歳。ジムは2フロアあり、スパーリングができる上の階から下の階にひとり降り、「なんでこんな目にあわせられるのか?」とフテくされた。
気分晴らしに傍らにあったベンチプレスの台に座ってバーベルを持ち上げた。
すると、英語で「お前、何をやっているんだ?」と怒った口調で語りかけられた。
「誰?」
視線を向けると、いつのまにか下の階に降りてきていたゴッチがいた。川口はヤバいと直感した。
「ゴッチさんの前でベンチプレスとかの筋トレをやっちゃいけなかったんです」
ゴッチはバーベルなどを用いた筋トレを嫌悪していたのだ。川口は佐山から聞いた「ゴッチさんの前でやったらいけないこと」を思い出した。
少しだけ冷静になったゴッチは川口に命じた。
「バーベルなんか持ち上げなくていいから、このエクササイズをやりなさい」
それは吊り輪にぶら下がったまま、その体勢を30秒間保つ練習だった。
「それが終わったら、今度は腕を曲げたままの状態で30秒!」
他の選手はゴッチが提案する吊り輪を使った練習を苦手とする者が多かったが、機械体操に苦手意識のない川口はいわれた通りにやることができた。
果たしてゴッチと相性が良かったのか、悪かったのか。川口にとってグリーンボーイ時代のほろ苦い思い出である。
(つづく)
取材・文/布施鋼治 撮影/長尾 迪
記事提供元:週プレNEWS
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