大地震を機に空爆激化! ミャンマー軍事政権の邪知暴虐...支援物資を受け取れば国軍が拘束も
今回の大地震により約400軒の家屋が全焼したマンダレーのセインパン地区。被災地を離れず周囲に簡易テントを張って暮らす人が多い
ミャンマーで2021年から続く軍事政権と民主派武装組織の衝突。同国の国軍は、民主派を一掃するため、一般市民も構わず迫害してきた。そして3月28日に起きた大地震から1ヵ月、軍事政権による市民への暴虐は、さらにエスカレートしているという。この国で何が起きているのか? ミャンマーに数多くの知人・友人がいる旅行作家の下川裕治氏が取材した。
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■「タイで地震が起きた」と誤解された理由3月28日、ミャンマー中部でマグニチュード7.7の大地震が起きたとき、僕はタイ・バンコクにいた。体感では震度3から4程度に思えたが、地震に慣れないタイ人は浮足立ち、多くの人々がビルから外に避難していた。バンコク市内で建設中のビルが倒壊したことも不安をあおった。
心配するメールが日本から何通も届く。しかし、震源はバンコクから1000㎞も離れたミャンマーのサガイン管区だった。
送られてきたメールの中に、日本に住むミャンマー人男性Tさんのものがあった。
「どうして、サガイン管区で地震が起きるのでしょうか。神は軍事政権の味方なんですか」
文字面に彼の怒りがにじむ。Tさんは、ミャンマーで軍事政権と闘う民主派グループへの支援を続けていた。
サガイン管区(管区は日本の県に相当)はミャンマー第2の都市マンダレーの西側、チンドウィン川流域に広がる行政区画だ。サガイン地方域と呼ばれることもある。
2021年のクーデターから内戦状態に陥っているミャンマーにおいて、サガイン管区は特別なエリアで、軍事政権への抵抗運動が最も激しい一帯だ。国軍は同エリアの通信をほぼ完全に遮断しており、地震の被害はなかなか外に伝わらない可能性があった。
ミャンマー中部の都市・マンダレー。王宮の周りにある仏教儀礼などに使われていた建物(ザヤッ)で被災者たちは一時的に避難生活を送る
ただでさえミャンマーからの情報は少ない。軍事政権が国民の通信手段に厳しい制限を加えているからだ。その時差が、さもバンコクで地震が起きたかのような誤解を生んでもいた。
地震の翌日から、軍事政権の検問をかいくぐるようにミャンマーの知り合いからメールが届き始めた。地震の惨状を伝える内容だった。
クーデター以来、ミャンマーの人々は軍事政権の弾圧を国際社会に訴え続けてきた。今年に入り、ミャンマーの人権団体は、クーデターから4年の間に、6000人以上が犠牲になったことを伝えている。
しかし、国際社会の腰は重かった。ロシアと中国が軍事政権を支援していることもマイナス要素だったが、例えばウクライナとロシアの戦争とは違い、ミャンマーは完全な内戦であることが最大のネックだった。
ザヤッ内で赤ちゃんにタナッカー(肌荒れ防止などのために使われるミャンマーの伝統的な白いペイント)を塗る母親
ミャンマーの民主派の中には、国際社会が軍事政権に有効な圧力をかけてくれないことへの失望感が広がっていた。
そこを襲った大地震。今回こそは世界の国々がミャンマーに目を向けてくれるかもしれない。そんな思いがメールから伝わってきた。
■軍事政権の悪辣非道震源地のサガイン管区は、最も深刻な被害を受けているはずだ。
そう考えたヤンゴン在住のMさんは、ミャンマーの正月にあたるティンジャンの休暇(4月の中旬)を利用して被災地の救援に向かうため、サガイン管区への潜入を試みた。
ただ内心は、難しいだろうと思っていたようだ。地震発生直後から、いくつかの団体や個人がサガイン管区の人々に救援物資を届けようとしていたが、その多くが国軍によって追い返されていたからだ。
Mさんは現地民を装いサガイン管区に向かった。ティンジャン休暇だったことは幸運だった。国軍の監視体制が手薄で、チェックポイントをすり抜けることに成功した。
Mさんはマンダレー在住の知人が運転する車でサガイン管区に入った。しかし20分も進むと、道路に走る深い亀裂に行く手を阻まれた。地震発生から1ヵ月が過ぎているというのに道路は放置されたままで、支援物資が届くはずがない。
サガイン管区にある仏塔「スンウーポンニャーシンパゴダ」は地震により天井が崩落、仏像の頭部が破壊されていた
Mさんらは近くの村に入り、インスタント麺や油などの支援物資を渡そうとした。村民は警戒していた。近くに国軍の兵士がいないか注意深く森に視線を送る。
「この辺りの村はどこも国軍の略奪を受けています。売る予定だった家畜も奪われたから現金もない。でも、支援物資を受け取ったってわかると、国軍に拘束されて、兵士にさせられて戦闘の前線に送られる。村人はそれを恐れているんです」
Mさんに同行した知人が説明してくれた。
ヤンゴンに戻ったMさんは、親しい知人にサガイン管区に入ったことを告げた。知人らは驚きの色を隠せなかった。「本当にサガイン管区に入ったのか」「拘束されそうにはならなかったのか」
サガイン管区ではいったい何が起きていたのか。
21年2月に起きた国軍のクーデターに対する抗議デモはミャンマー全土で湧き起こった。その規模が大きく、頻度が多かったのは、同国最大の都市として知られるヤンゴンだった。国軍は武力で弾圧を始める。多くの市民が犠牲になっていった。
その中で武装して対抗するしかないという若者が増えていく。彼らは民主派の武装組織である国民防衛隊(PDF)に志願入隊した。その多くは軍事政権に対抗する少数民族の軍隊で訓練を受け、全国で国軍との戦闘を始める。その拠点のひとつが、住民の大多数が民主派を支持するサガイン管区だった。
国軍はサガイン管区に入り込むPDFや彼らを支える住民を標的にした攻撃を開始する。その戦闘が激しくなっていくのは、21年の年末ぐらいからだ。その状況を国軍系や民主派メディアの報道から追いかけてみる。
マンダレーにあるマソーイン僧院は地震で倒壊。多くの僧侶が亡くなった
21年11月:国軍はPDFの医療チームを襲撃。男性3人を射殺、女性9人を拘束し、人間の盾にした。これは国軍が進軍する際、その先頭に女性たちを歩かせる戦術。対抗勢力からの攻撃を防ぐ目的だった。
21年12月:国軍はサガイン管区の村を守る自警団の少年11人を殺害。少年たちは新型コロナウイルスに感染した老人の世話をするなど、村のために奔走していた。国軍は拘束した少年を小屋に閉じ込め、そこに火を放つという残忍な手法で殺害する。自警団の少年たちは成長するとPDFに入隊していくことが多い。それに対する見せしめ殺害だった。
この頃から、国軍の攻撃は激しさを増していく。まず民主派が多いと思われる村を空爆し、その後に兵士が侵攻。2、3日居座り、家々の冷蔵庫やバイクなど、金になるものを略奪し、家畜は殺して食料にし、最後は火を放つ。こうして200軒ほどの家々を焼き、村を焼失させていった。
22年5月:国軍の正規師団で、残虐さで知られる「第77軽歩兵師団」をサガイン管区に投入。僧院を襲撃し、そこにいた9人を拘束。彼らを並ばせ、順に頭部を撃ち抜いて射殺していった。国軍はPDFが僧院に逃げ込んだためと説明した。
国軍による民主派殺害の手口はエスカレートしていく。
22年9月:国軍は村の学校を襲撃し、子供7人を殺害。足を撃たれた子供が「痛いよ、早く殺して」と母親に訴える動画がSNSで流れた。
23年3月:国軍は殺害したPDFの兵士の体をバラバラにし、胴体の上に内臓を盛り、その上に首を置いた写真を公表した。PDFへの見せしめだった。
23年8月:国軍が空爆で化学兵器を使った疑惑が浮上。村民が呼吸困難や手足のしびれを訴えた。国軍はその証拠を隠滅するためか、空爆した村に、さらに火を放ち、1500軒が焼失した。
国軍の見境のない攻撃を恐れ、村を離れる人々も多かった。しかし、それができるのは経済的に余裕があったり、頼れる親族がいる人に限られた。貧困層はサガイン管区に残るしかなかった。
そんな中で起きた大地震だった。
マンダレーのセインパン地区では、僧院が義援金を集め、僧侶自ら指揮して各世帯に渡していた
「今回の地震に国軍はほくそ笑んでいますよ。これでサガイン管区の民主派勢力はさらに弱体化するって。
でも、国軍だってダメージを受けています。首都ネピドーにある国軍の中枢機関や彼らの宿舎が倒壊し、600人以上は死んだ。いい気味ですよ」
ヤンゴンで日本語教師をしているCさんは小声でそう語った。
国軍を「国民を守る軍隊」だと考えるミャンマー人はひとりもいない。
4月6日、国軍ナンバー2のソー・ウィンは、今回の地震被害を受けて、世界各地から届いた救援物資をすべて国軍に渡すよう通達した。被災したマンダレーに届く支援物資も国軍行政官が振り分けている。サガイン管区にはなかなか届かない。
軍事政権ナンバー2のソー・ウィン国防軍副司令官
日本でも話題になっているミャンマー・タイ国境での特殊詐欺集団の背後にも国軍がいる。この集団を仕切っているのは、国軍傘下の国境警備隊(BGF)である。
そのリーダーのソー・チットゥを、ミャンマーの民主派メディアは「悪名高き軍閥のリーダー」と書く。この特殊詐欺集団が生み出す利益は年間300億円ともいわれ、そのうち150億円が国軍に流れていると噂されている。
ミャンマーの電力事情は劣悪だ。地方では1日4時間ほどしか電気が使えない。軍事政権が火力発電所の燃料を買わないためだ。人々は発電機で生活を維持しようとするが、それを売る会社の背後には、国軍トップのミン・アウン・フラインの息子がいるといわれる。
ミャンマー国軍は国民のことなど何も考えていない。既得権や利権を守り、敵対する民主化勢力や少数民族軍に容赦なく銃口を向ける。その手口は同じ民族に対してどうしてここまでできるのかと戦慄(せんりつ)するほど残忍だ。
■震災後、空爆はむしろ増えた23年10月、ミャンマー北部のシャン州、そして西部のラカイン州で、少数民族軍が国軍に対して一斉に蜂起した(1027作戦)。
この動きに乗じて、各地のPDFも少数民族軍と連携し国軍との戦闘状態に突入。国軍はサガイン管区の民主派掃討にあたっていた部隊を戦闘地域に振り分けることになる。しかし、少数民族軍の士気は高く、今やシャン州の北部、そしてラカイン州の大半は少数民族の支配下になっている。以降、国軍は報復だと言わんばかりに、奪われた街や村に空爆を続けてきた。
そして大地震発生後も空爆は続いている。地震発生から5日間の空爆は32回。民主派勢力と国軍は地震後、停戦を発表したが、まったく守られていない。それどころか、国軍は空爆を強化する方針を打ち出した。
マンダレーのある村。崩壊した仏塔の修復に励む村人たち
民主派メディアの発表では地震発生から4月8日までの間に92回の空爆が行なわれ、72人が犠牲になっている。民主派勢力の弱体化を狙っているのか、サガイン管区への空爆は激しさを増している。
その標的も見境がなくなっている。僧院や教会だけでなく、病院、市場、そして被災した人々がテント暮らしを続けるエリアにも爆弾を落とす。明らかに民間人を狙った空爆も少なくない。
軍事政権は今年に入り、徴兵年齢のミャンマー人の出国を厳しく制限し始めた。海外に出て働き、家族を支えようとする若者の希望も閉ざされつつある。
ヤンゴン在住のミャンマー人・Rさんはメールで僕にこう言った。
「もうミャンマーは国じゃありません。国軍がめちゃくちゃにしてしまいました。国軍は自分たちの利権を守るのに必死。だから抵抗する民主派が怖い。残忍さはその裏返しなんです」
●下川裕治 Yuji SHIMOKAWA
1954年生まれ、長野県出身。ノンフィクション、旅行作家。新聞社勤務の後『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビュー。以後、アジアを中心にバックパッカースタイルで旅を続けている。『週末ちょっとディープな台湾旅』(朝日新聞出版)、『東南アジア全鉄道制覇の旅』シリーズ(双葉文庫)、『70歳のバックパッカー』(産業編集センター)など著書多数
取材・文/下川裕治
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