坂本九を愛するYOUが39年前に起きた悲劇の現場へ:YOUは何しに日本へ?
更新日:
イチオシスト:イチオシ編集部 旬ニュース担当
注目の旬ニュースを編集部員が発信!「イチオシ」は株式会社オールアバウトが株式会社NTTドコモと共同で開設したレコメンドサイト。毎日トレンド情報をお届けしています。
日本を訪れる外国人たちを、空港で勝手に出迎えアポなしインタビュー!そのまま密着取材を行う「YOUは何しに日本へ?」(月曜夜6時25分)。今回のテーマは、「名店!名曲!各所に各酒に有名人だピョーン!YOUの五臓六腑に染み渡るぅ~スペシャルう~!!」。歌って騒いで大忙し、有名人のYOUまで登場する95分で、果たしてどんな面白YOUに出会えるのか?
【動画】坂本九を愛するYOUが39年前に起きた悲劇の現場へ
羽田空港で声をかけたのは、オーストラリアから来た故・坂本九さんの大ファンというグレンさん(61歳)。『上を向いて歩こう(=SUKIYAKI)』が特に好きで、「彼の歌声はとても美しくて優しくて澄んでいて、聴くと心が落ち着くんだ」と目を細める。
名曲との出会いは、かつて付き合った日本人女性が初デートで歌ってくれたこと。「一人ぽっちで孤独な夜には、この曲に“がんばって”って励まされている気がするんだ。僕の人生のサウンドトラックなんだ」と話す。
今回の来日も、1985年8月12日に坂本さんが亡くなった場所を訪れるため。羽田から伊丹に向かっていた123便が、操縦不能で群馬県の山中に墜落した『日航ジャンボ機墜落事故』は、520名もの死亡者を出した悲惨な大事故だった。仕事で大阪へ向かっていた坂本さん(当時43歳)も犠牲となり、帰らぬ人に。「僕の人生において大切な曲だから、事故現場に行って献花したいんだ」というグレンさんに同行をお願いすると、快諾してもらえたので密着決定。
翌朝8時に合流すると、北陸新幹線で高崎駅に向かい、その後レンタカーへ。車内ではBGMも流さず、緊張した面持ちで1時間ほど走ると、下仁田町(群馬県)で花屋「花のたかはし」に立ち寄る。事故現場に近い最後の花屋で、遺族の方も多く利用されるそう。
グレンさんは、店でおすすめされた菊の花束に加え、赤いバラも購入。オーストラリアでは、一輪の赤いバラで敬愛する故人を追悼するのだそう。花と共に坂本さんのもとへ。
あいにくの雨の中、複雑な思いを募らせつつ山道を上がり、車が通れる最終地点に到着。高崎駅から2時間、群馬県上野村に位置する事故現場・御巣鷹の尾根へ向かう登山口だ。ここから180m登った山中には、あの壮絶な事故現場がある。
たまたま通りがかった山の管理人さんに、坂本さんの慰霊に来たと伝えると、「“9‐E”って場所があります。そこに大島九(ひさし)って本名で入ってますから。気をつけてね」と教えてくれた。雨足が強まっているが、ここまできたらあと一歩だ。
足元が悪い中でも、「とても穏やかで美しい場所だ。ここであの事故が起きたなんて想像できないよ」と思いを馳せるグレンさんは、坂本さんの曲が1位になった1963年にシドニーで産声をあげた。1960年に19歳でレコードデビューし、翌年にリリースした『上を向いて歩こう』が3ヵ月連続で売り上げ1位の大ヒット。『SUKIYAKI』というタイトルでアメリカでも発売されると、1963年には全米ビルボードチャートで第1位に輝いた。
当時は母国のラジオでも頻繁に流れ、家族みんなでラジオの前で歌ったそうだ。
青年時代には、気になっていた日本人女性と坂本さんの話題で意気投合したグレンさん。初デートのドライブで、一緒に歌って恋が成就したと笑う。人生で良い時も悪い時も、いつも寄り添ってくれた曲だった。
その後も『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』など、毎日のように聞いていたが、あの事故で叶わなくなった。「もう彼から名曲が歌われることがないんだって。彼が亡くなったことと二重の悲しみを感じたよ。だから彼の亡くなった場所へ行って追悼したいんだ」。そう願ってきたグレンさんは、2023年に還暦を迎え、仕事も一段落したところで来日を実現させた。降り続く雨の中、杖を頼りに山を一歩一歩登り、ついに…。
念願だった慰霊碑の前に到着。グラウンドゼロは39年前、520名もの尊い命が失われた場所だ。グレンさんは菊の花束を手向け、「安らかにお眠りください」と一礼した。この地で眠る、全ての方のために…。
次に坂本さんの墓標を見つけ、バラを手向けた。「音楽をありがとうございます。私たちは今もあなたの音楽に幸せをもらっています。この先の世代もあなたの音楽を聴くことでしょう。あなたの音楽は生き続けるでしょう」と伝えるグレンさん。
さらに「伝えられなかった言葉、やり残されたこと、歌われなかった音楽、忘れずにずっと想っています オーストラリアのファンより」というメッセージも。そして最後は、『上を向いて歩こう』を口ずさむのだった。
39年の時を越え感謝を伝えたグレンさんは、帰りの車内で大声で坂本さんの歌を歌った。
そして新宿に戻り、人生初のすき焼きを『米新』さんで堪能できたところで密着は終了。「今回の経験で改めてもっと坂本九を好きになったよ」というグレンさん、また日本に来てね!
【動画】坂本九を愛するYOUが39年前に起きた悲劇の現場へ
羽田空港で声をかけたのは、オーストラリアから来た故・坂本九さんの大ファンというグレンさん(61歳)。『上を向いて歩こう(=SUKIYAKI)』が特に好きで、「彼の歌声はとても美しくて優しくて澄んでいて、聴くと心が落ち着くんだ」と目を細める。
名曲との出会いは、かつて付き合った日本人女性が初デートで歌ってくれたこと。「一人ぽっちで孤独な夜には、この曲に“がんばって”って励まされている気がするんだ。僕の人生のサウンドトラックなんだ」と話す。
今回の来日も、1985年8月12日に坂本さんが亡くなった場所を訪れるため。羽田から伊丹に向かっていた123便が、操縦不能で群馬県の山中に墜落した『日航ジャンボ機墜落事故』は、520名もの死亡者を出した悲惨な大事故だった。仕事で大阪へ向かっていた坂本さん(当時43歳)も犠牲となり、帰らぬ人に。「僕の人生において大切な曲だから、事故現場に行って献花したいんだ」というグレンさんに同行をお願いすると、快諾してもらえたので密着決定。
翌朝8時に合流すると、北陸新幹線で高崎駅に向かい、その後レンタカーへ。車内ではBGMも流さず、緊張した面持ちで1時間ほど走ると、下仁田町(群馬県)で花屋「花のたかはし」に立ち寄る。事故現場に近い最後の花屋で、遺族の方も多く利用されるそう。
グレンさんは、店でおすすめされた菊の花束に加え、赤いバラも購入。オーストラリアでは、一輪の赤いバラで敬愛する故人を追悼するのだそう。花と共に坂本さんのもとへ。
あいにくの雨の中、複雑な思いを募らせつつ山道を上がり、車が通れる最終地点に到着。高崎駅から2時間、群馬県上野村に位置する事故現場・御巣鷹の尾根へ向かう登山口だ。ここから180m登った山中には、あの壮絶な事故現場がある。
たまたま通りがかった山の管理人さんに、坂本さんの慰霊に来たと伝えると、「“9‐E”って場所があります。そこに大島九(ひさし)って本名で入ってますから。気をつけてね」と教えてくれた。雨足が強まっているが、ここまできたらあと一歩だ。
足元が悪い中でも、「とても穏やかで美しい場所だ。ここであの事故が起きたなんて想像できないよ」と思いを馳せるグレンさんは、坂本さんの曲が1位になった1963年にシドニーで産声をあげた。1960年に19歳でレコードデビューし、翌年にリリースした『上を向いて歩こう』が3ヵ月連続で売り上げ1位の大ヒット。『SUKIYAKI』というタイトルでアメリカでも発売されると、1963年には全米ビルボードチャートで第1位に輝いた。
当時は母国のラジオでも頻繁に流れ、家族みんなでラジオの前で歌ったそうだ。
青年時代には、気になっていた日本人女性と坂本さんの話題で意気投合したグレンさん。初デートのドライブで、一緒に歌って恋が成就したと笑う。人生で良い時も悪い時も、いつも寄り添ってくれた曲だった。
その後も『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』など、毎日のように聞いていたが、あの事故で叶わなくなった。「もう彼から名曲が歌われることがないんだって。彼が亡くなったことと二重の悲しみを感じたよ。だから彼の亡くなった場所へ行って追悼したいんだ」。そう願ってきたグレンさんは、2023年に還暦を迎え、仕事も一段落したところで来日を実現させた。降り続く雨の中、杖を頼りに山を一歩一歩登り、ついに…。
念願だった慰霊碑の前に到着。グラウンドゼロは39年前、520名もの尊い命が失われた場所だ。グレンさんは菊の花束を手向け、「安らかにお眠りください」と一礼した。この地で眠る、全ての方のために…。
次に坂本さんの墓標を見つけ、バラを手向けた。「音楽をありがとうございます。私たちは今もあなたの音楽に幸せをもらっています。この先の世代もあなたの音楽を聴くことでしょう。あなたの音楽は生き続けるでしょう」と伝えるグレンさん。
さらに「伝えられなかった言葉、やり残されたこと、歌われなかった音楽、忘れずにずっと想っています オーストラリアのファンより」というメッセージも。そして最後は、『上を向いて歩こう』を口ずさむのだった。
39年の時を越え感謝を伝えたグレンさんは、帰りの車内で大声で坂本さんの歌を歌った。
そして新宿に戻り、人生初のすき焼きを『米新』さんで堪能できたところで密着は終了。「今回の経験で改めてもっと坂本九を好きになったよ」というグレンさん、また日本に来てね!
記事提供元:テレ東プラス
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。