野口伊織氏の作った吉祥寺が好きでした【駅ぶら】06京王電鉄484 井の頭線115
※2024年5月撮影
トップ画像は、吉祥寺平和通り。白いクルマが駐車している辺りにオジサンが大きなオナカを突き出して焼き鳥を焼いている店がありました。
右のシャッターの角でオジサンが焼き鳥を焼いていました。たぶん半世紀くらい前まで。(笑)左の宝石屋さんはその頃から変わっていません。
※2024年5月撮影
この果物屋さんも昔から変わっていないと思います。正面には1971年(昭和46年)に伊勢丹がオープンしましたが、2010年(平成22年)に閉店、コピス吉祥寺になっています。
※2024年5月撮影
ちなみにこれは逆方向、左奥に上の果物屋さん、正面は平和通り、奥にロンロンの出入口が見えています。現在は95歳の母と30歳の息子が写っています。1998年(平成10年)8月の写真。
※1998年8月撮影
平和通りを西に進みます。この右側に「玉子屋」がありました。
大きな木箱におがくずが入っていてその中に玉子が埋まっています。買いに行くとおばさんが1個1個玉子をぶら下がっている裸電球の明かりに透かしてから新聞紙の袋に入れてくれました。値段は今と同じ位、・・・と言うコトは、今の10倍くらいの価値だったのだと思います。
玉子はおがくずの中、冷蔵保存はされていません。おそらく有精卵だったので、おばさんは、電球に透かしてヒヨコになりかけていないか確認していたのだと思います。これも半世紀以上前の記憶です。どなたか、この玉子屋さんのコト、覚えておられないですか?
※2024年5月撮影
吉祥寺パルコの角です。この通りはよく通っていました。
※2024年5月撮影
パルコが1981年(昭和56年)に開店する前ここには、映画館が2軒ありました。筆者は学生時代にここの映画館で秋吉久美子さん主演のにっかつ映画『赤ちょうちん』(1974)『妹』(1974)『バージンブルース』(1974)藤田敏八監督シリーズ3本を観ました。
※2024年5月撮影
そして吉祥寺を伝説の街にしたと有名な野口伊織さんが慶応大学卒業後、1966年(昭和41年)にオープンしたジャズ喫茶“funky”が映画館の前にありました。
作家倉橋由美子さんの小説『暗い旅』(1961/現在は河出文庫で読むことができます)の旅は、“funky”から始まります。
と言っても1961年(昭和36年)に出版された小説なので吉祥寺の“funky”ではありません。高校生だった伊織さんが親の経営する純喫茶「ブラジル」の地下に開いた「funky」というJAZZ喫茶の方です。
高校生の筆者は、吉祥寺の“funky”地下、凄まじい音量でモダンジャズを聴きながら暗い店内でこの小説(当時は新潮文庫でした)を読んで悦に入ってました。(笑)
学生時代は専ら2階のJBLパラゴンでジャズボーカルを聴きながらバーボンを飲むのが習慣でした。
筆者は個人的に野口伊織さんを存じあげませんが、80年代に“sometime”や“ham & eggs”で何度かお見掛けしています。
1981年“funky”は、ここを左に折れたパルコ北側に移転しました。
※2024年5月撮影
この先に“funky”があります。
※2024年5月撮影
野口伊織さんは、筆者が高校時代毎日の様に通った「吉祥寺駅」南口のロック喫茶“bebop”を1970年(昭和45年)にオープン。マイルス以降のモダンジャズ専門店“outback”、爆音ロックの“赤毛とそばかす”を西友の近くに1972年(昭和47年)、ジャズ喫茶“西洋乞食”(1973年)、ジャズライブバー“sometime”(1975年)、ジャスクラブ“ham & eggs”(1977年)などを次々に開店。
1980年には閉店した“bebop”跡にケーキ店“LEMON DROPS”をオープンさせ、1983年には渋谷スペイン坂にバー“アルコホール”を開店します。1997年井の頭公園横に居酒屋“金の猿”を開店。
一時期は30店舗を経営されていましたが、野口伊織さんは、2001年(平成13年)に59歳の若さで亡くなられました。筆者は、とにかく伊織さんの作った店に通っていました。探せばオープンした時の渋谷“アルコホール”のボトルカードがあります。
また“金の猿”は予約しておくと、冬にベランダの炬燵で寒風に吹かれながら熱燗を飲むことができました。これはガールフレンドたちに大好評。(笑)
これが現在の“funky”です。
※2024年5月撮影
野口さんの没後、野口さんが作ったお店は、残念ながら大半が大きく変わってしまいました。SONYのWalkman登場で個人が好きな場所で好きな音楽を好きな音量で聴くことが可能になったことなど、ROCK喫茶やJAZZ喫茶を不必要にしてしまったこともあると思います。
しかし野口さんという極めてセンスの良いクリエイターが作ったお店を、凡庸なマーケッターが引き継いだということだと筆者は個人的に諦めています。
ここの“funky”も野口さんがお元気な頃は「パラゴン」でジャズを聴くことができました。野口さんの没後、筆者は通うのを止めました。
※2024年5月撮影
筆者の吉祥寺での「行きつけ」はほとんどが野口さんの作ったお店でした。それで2001年以降、吉祥寺駅から筆者の足は遠のいてしまったのです。
筆者にとっての吉祥寺は、野口伊織氏が作った吉祥寺だったと思っています。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)
記事提供元:鉄道チャンネル
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