モーリーの願い。ノーベル平和賞と「核の現実」、メディアは議論に風穴を開けてほしい
『週刊プレイボーイ』で「挑発的ニッポン革命計画」を連載中の国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンが、日本被団協のノーベル平和賞に関する報道や議論の「深さ」について考察する。
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核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)のノーベル平和賞受賞が決まりました。長年の活動に最大限の敬意を表します。
ただ気になるのは、本件に関する報道の多くが、受賞者や関係者の喜びの声、あるいは出演者の"感想程度のコメント"を紹介するにとどまったことです。今回の受賞の背景には、日本被団協が掲げる「理想」とは逆の方向に世界が向かっているという厳しい「現実」があります。
ロシアは核使用の可能性を示唆し、北朝鮮とイランは核・ミサイル開発で連携を深めています。中国は先日も台湾を包囲して大規模な軍事演習を行なうなど、軍が対米核戦力を含むパワーを増大させてプレゼンスを拡大し、現状を着々と塗り替えています。
そもそも日本国内においても、憲法9条の「理想」と、アメリカの"核の傘"に守られてきたという「現実」の間には、以前から大きな隔絶がありました。そして今、国際情勢が厳しさを増し、いよいよ「理想」と「現実」の折り合いがつかなくなっています。
今回の受賞は、だからこそ「理想」をもう一度見つめるべきだということだと思いますが、その「理想」と「現実」のギャップを丁寧に、詳細に、しかもオブラートに包むことなく冷徹に伝えることは、報道の大きな役割であるはずです。
絶対悪、あるいは絶対正義の存在を前提とし、議論をタブー化するのは非常に簡単な振る舞いです。アメリカにおいては長年、イスラエルの問題がそれでした。しかし現在はZ世代が牽引する形で、アメリカ中心の正義から距離を取り、多角的な視点から不都合な歴史や社会のゆがみをとらえ直そうとする潮流が生まれています。
イスラエルがガザ地区全体を"集団的に懲罰"することに正当性を与えるロジックを良しとしない――その価値観が広く共有されれば、いずれ東京大空襲や原爆投下を正当化する「従来のアメリカの主張」を疑う動きも出てくるでしょう。
個人的にも隔世の感があります。私がアメリカで過ごした1980年代は、近しい親族がホロコーストの犠牲になったユダヤ系アメリカ人の意見も強く、ナチスと連携した日本は"原爆により懲罰"されて当然との意識すらありました。
また、東西冷戦のさなか、核兵器の存在に疑問を持つことはアメリカの弱さにつながり、ソ連を利する―そんな日本から見れば異常、しかしアメリカではまっとうとされる感覚が社会を覆っていたこともあり、核使用への贖罪意識が芽生えることなど想像できませんでした。
そのような社会が、映画『オッペンハイマー』が大ヒットするまでに変化した要因はいくつもあると思います。中でも、やはりメディアが果たした役割は小さくないでしょう。
そこで日本のメディアにはいま一度、問いたい。絶対正義、絶対悪を決めつけて議論にフタをするのではなく、むしろフタをされた議論に風穴をあけることがメディアの本来の役割です。
短期的に利益にならないことでも、また批判や面倒に巻き込まれることがわかっていても、メディアへの信頼が揺らいでいる今だからこそ、タブーなき議論を社会に投げかけることで存在意義を示してほしいのです。
戦前日本の暗い過去を直視しない従来の右派とも、逆に中国や韓国の誇張を含めたアンバランスな言い分を吹聴してきた従来の左派とも違う、リアルな戦争責任との向き合い、そして「核の現実」との本当の向き合いは、そこから始まるはずです。
記事提供元:週プレNEWS
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