藤原道長が紫式部や小野道風など多くの人材を見出し育て上げられた理由とは?【日本史】
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イチオシスト:イチオシ編集部 旬ニュース担当
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長徳二年(九九六)七月、右大臣藤原道長は正二位左大臣に昇進。臣下最高位に就いたことで、摂関家、藤原一族の勢力争いは終わり、道長の一人天下となります。
そこで道長は娘彰子(しょうし)を入内(じゅだい)させ、一条天皇の中宮(ちゅうぐう)に立てるのに成功。思惑通り、外戚として力を振るうことになります。権力の頂点に立って、心満ちたる心境を謳い上げたと伝えられるのが次の歌です。「此の世をば 我世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」
ところが、意外にも道長は独裁者にありがちなワンマン振りはなく、多くの人材を見出し、育て上げる名人だった。『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』に「時の人を得たるや、ここに盛んなりと為す」と記され、和泉式部(いずみしきぶ) 、安倍晴明、源信、源満仲など八十六名の名が見えます。他にも紫式部や小野道風などがおり、王朝文化の春爛漫たる様が見えてきます。
出典:『図解 眠れなくなるほど面白い 日本史』著:鈴木旭
記事提供元:ラブすぽ
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