白河法王の後ろ盾を得て出世コースに乗った平清盛の最後とは?【日本史】
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イチオシスト:イチオシ編集部 旬ニュース担当
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保元・平治の乱で武士団の対立勢力は姿を消し、後に残されたのは平清盛を棟梁とする平氏のみでした。その結果、当然のことながら貴族たちも武士団を頼みにして争うことはできなくなりました。
そこで後白河上皇は清盛を公卿(くぎょう)社会に引き上げ、武力を持った公卿として利用する道を開きます。前例のないことですが、永暦元年(一一六〇)、清盛は武士身分のまま、参議になりました。白河法王のご落胤伝説が幸いしたと言い伝えられています。
その後、後ろ盾を得てトントン拍子の出世コースに乗り、仁安二年(一一六七)、左・右大臣を飛び越して一気に太政大臣に就任頂点に立った時、平氏の知行国は日本六十六州の内、三十余国。半数を超えていました。
だが、武家独自の統治機構を築かず、貴族社会に埋没したため、海賊将軍としての夢も果たせず、滅んでしまうことになります。
出典:『図解 眠れなくなるほど面白い 日本史』著:鈴木旭
記事提供元:ラブすぽ
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