「あの試合があったからこそ」――日本初のバーリトゥードで壮絶に散ったレジェンド格闘家の軌跡
イチオシスト

2006年、7年ぶりの修斗のリングでTKO勝利を収めた川口健次
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第53回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
理想の格闘技を追求した初代タイガーマスクこと佐山サトルが創設したシューティング(現・修斗)。前回に続き、この世界最古の総合格闘技団体を黎明期から支えた初代ライトヘビー級チャンピオン、川口健次をフィーチャーする。
【体重差50kgのマッチメーク】『バーリトゥード・ジャパン・オープン94』(1994年7月29日・東京ベイNKホール)のトーナメント1回戦。本職はキックボクサーのヤン・ロルムダー(オランダ)に1ラウンド3分59秒、TKO負けを喫した直後、川口健次は千葉県内の救急病院に搬送された。
サッカーボールキックを何発も食らったせいか、頭痛はするし吐き気が止まらない。川口は、そのときの苦しさをいまも覚えている。
「顔面打撲という診断を受けたけど、自分としては顔面はそうでもなかった。病院ではずっと吐き続けました。食べられないから点滴を打ってもらったけど、吐くものがなくなったら今度は緑色の液体のようなものが出てきました」
緑色の吐瀉物は十二指腸から逆流した胆汁が含まれている可能性が高く、腸閉塞や急性膵炎など重篤な消化器疾患のサインといわれている。正味4分足らずの試合だったが、川口は自らの体の異変に驚くしかなかった。
「相当の衝撃を受けていたんでしょうね」
病院に搬送された時点で、筆者の脳裏からシューティングの切り札というべき川口がプロとして初敗北を喫したという事実はすっかり抜け落ちていた。そんな数値的なデータより、目の前で起こった従来の格闘技の範疇を超えたストリートファイトまがいの試合内容にどう対処していいか全くわからなかった。
この大会で行われたトーナメントの試合は二極化していた。結果的に優勝するヒクソン・グレイシーの試合はいずれも神秘的で芸術的ともいえる雰囲気をまとっていた。そもそもヒクソンが身につけたグレイシー柔術は対戦相手を制圧するセルフディフェンスをベースとするのだから当然といえば当然だ。
前年度から始まったUFC(この頃はまだ「アルティメット大会」と呼ばれていた)におけるヒクソンの実弟ホイス・グレイシーの闘いぶりからその一端を知ることはできたが、日本で見るとまたその印象は一味も二味も違っていた。
そんなヒクソンのファイトスタイルとは対照的に他の試合は神秘的、あるいはアートという価値観とは対局にある、まさにバイオレンスだった。川口と共にシューティング代表というべき立場で出場していた草柳和宏の相手は、ジェラルド・ゴルドーの弟子で、47㎏もの体重差があるダビット・レビキ(アメリカ)だった。
草柳は片足タックルに入った体勢から頭上に鉄拳を打ち落とされ、試合開始わずか20秒で壮絶に散った。試合順は川口より1試合早かったので、一足早く千葉県内の救急病院に緊急搬送されている。
いまだったら「50kg近い体重差のあるマッチメークをなぜ組むのか?」と問題視する声が起こりそうだが、黎明期のバーリトゥードは無差別級によるワンデートーナメントがスタンダード。UFCもそうだったので、『バーリトゥード・ジャパン・オープン』もそれに倣ったうえでのトーナメント戦だった。
もっとも、川口とてぶっつけ本番で試合に臨んだわけではない。川口も草柳同様、試合開始早々、片足タックルを狙っていたが、これは師・佐山サトルとそういう作戦を立てていたからだ。相手はオランダでも名の知れたキックボクサーだったので、川口は打ち合いは避け、グラウンドで勝負しようとしていた。
しかし、それまでのシューティングの試合で川口はほとんどタックルを使っていなかった。
「やっぱりタックルという柄ではなかったですね。(結果的に)もう少しいつもの自分のスタイルを保ってやればよかった」
スタンドの攻防でロムルダーの右腕を両手で掴んでリストロックを狙う場面もあったが、ロムルダーは空いている左手で川口の後頭部を殴りつけ、危機を脱していた。
川口は「スタンドで相手の腕を極めようとしても、全く意味がなかった」と振り返る。
「たぶんグラウンドになって押さえ込んでいるときだったら掴めるんでしょうけど、スタンドだったら相手も動くからうまく掴めない。掴んだとしても、抜けちゃう。僕は僕でフルパワーで掴んでいたけど、頭の中ではやっぱり(それまで川口が見てきた)プロレスの影響もあったんでしょうね」
プロレスではスタンドレスリングで相手の腕をとってきれいに投げ飛ばしたり、回転させたりするムーブがある。そのイメージが頭に残っていたのだろう。少なくとも日本国内ではバーリトゥードの前例がなかったのだから、それも仕方あるまい。
ロムルダーが四つん這いの体勢をとったときにはフェースロークを仕掛けたが、これも「抜けてしまった」と証言する。
「その瞬間、『あっ、これも使えない』と思いました。たぶんそれまでロムルダーはフェースロックなんかかけられたこともなかったと思うけど、簡単に跳ね返されてしまった」
【3年越しのリベンジマッチ】大会前、川口は「家に無事に帰りたい」と話をしていた。当時、一般企業に勤めていた川口はすでに妻帯者だったが、妻にバーリトゥードの試合に出ることは告げていなかった。それゆえの「無事に帰りたい」という発言だったが、結局病院に二泊することになってしまった。
そうなると、やはりバレた?
「いや、バレなかったです(微笑)。もちろん入院したことはバレたし、着替えを持ってきてもらった記憶があります。ケガをした理由として『飲み会が盛り上がってテーブルの上に乗っていたらひっくり返ってしまった』と説明しました。格闘技には全く興味のない人なので、この大会を伝える格闘技専門誌に目が行くこともなかったと思います。あっ、でも会社には試合に出たことが思い切りバレてしまいましたね(苦笑)」
この大会の反響はすさまじく、バーリトゥード・ジャパン・オープン実行委員会は優勝したヒクソンを翌年も招聘し、日本武道館で大会を行うことになる。UWF系も散発的にワンマッチでバーリトゥードマッチを組むようになっていく。もう誰もバーリトゥードという黒船を止めることはできなかった。
シューティングは従来の路線のまま行くか、それともバーリトゥードを取り入れた路線で行くかで内部の意見は真っ二つに割れた。それでも、禁断の実を味わってしまった世間のニーズを無視するわけにはいかない。シューティングは従来のルールをゼネラルスタイル、バーリトゥードに近いそれをフリースタイルとし、2スタイルを平行してマッチメークするようになっていく。
そうした中、川口は翌95年4月20日開催の『バーリトゥード・ジャパン・オープン95』でのトミー・ウーキングスティック(アメリカ)とのワンマッチを腕ひしぎ十字固めで快勝し、このルールにも適応できることを実証してみせた。
そして97年11月29日には『バーリトゥード・ジャパン97』でロムルダーと再戦する機会に恵まれた。1Rからマウントポジションをとるなど試合を攻勢に進め、3Rチョークスリーパーで粘るロムルダーからタップを奪った。初対決のときと比べると、凄惨な場面は皆無。3年という月日の中で、川口がバーリトゥーダーとして成長した証だった。

3年越しの再戦でロムルダーから一本勝ち
今回原稿のやりとりをする中で、川口は「正直、あまり思い出したくない『バーリトゥード・ジャパン・オープン94』ですが、あの試合があったから今があるのだから仕方ない」と吐露した。続けて、こうも言った。
「あの試合があったからこそ、わたしの格闘技に対する考えも変わりました。それから本当の強さを追求することもできました」
川口が最後にMMAの舞台に立ったのは2015年11月1日だった。現役晩年は黒星が先行したが、彼の功績を知る者は〝生きる伝説〟としてその姿勢を高く評価した。20代の頃と比べるとMMAは大きく進化したといわれているが、川口の捉え方はちょっと違う。
「いまのMMAは佐山先生が考案したシューティングスタイルに(いくつかの要素を)プラスアルファしただけですよ」
今年58歳になるが、川口は自主トレの形で黙々と練習を続けている。
(川口健次編 おわり)
取材・文/布施鋼治 撮影/長尾 迪
記事提供元:週プレNEWS
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