分断の中で映画を探究したコンラート・ヴォルフの特集決定。4作が日本初上映
東ドイツ国営の映画製作会社〈DEFA〉を代表する監督だったコンラート・ヴォルフ。その生誕100年に合わせ、日本初上映4作を含む全7作を上映する〈コンラート・ヴォルフ生誕100年 特集上映 2025〉が、10月18日(土)より渋谷ユーロスペースで、11月29日(土)より大阪シネ・ヌーヴォで1週間ずつ開催される。ポスタービジュアルと予告編が到着した。
作品ラインナップは、アウシュビッツに移送されるユダヤ人女性とドイツ人下士官との出会いと別れを描いた「星」(1959/日本初上映)、東⻄ベルリンの分断を象徴するラブストーリー「引き裂かれた空」(1964)、19歳でソ連兵としてドイツを訪れたヴォルフの自伝的作品「僕は19歳だった」(1968)、戦後ドイツの混乱期をたくましく生きる人々の物語「太陽を探す人々」(1972/日本初上映)、社会主義における芸術家の存在意義を問う「競技場の裸の男」(1974/日本初上映)、反ナチ化に携わるドイツ人捕虜たちの苦悩を見つめる「ママ、僕は生きてるよ」(1977/日本初上映)、女性歌手の人生模様を描く「ソロシンガー」(1980)。
「星」は《最も重要なドイツ映画100選》に選出され、今年のカンヌ国際映画祭クラシック部門で上映されたことでも知られる。ポスタービジュアルの写真は、「ソロシンガー」の撮影現場で話すヴォルフ監督と主演女優レナーテ・クレスナーを切り取ったもの。
出生地のドイツと“祖国”となったソビエト連邦、政治と芸術、感情と規律の狭間で葛藤しながら映画を探究したヴォルフを再発見するときが来た。

コンラート・ヴォルフ Konrad WOLF
1925年10月20日ヘッヒンゲン(ヴュルテンベルク州)生まれ。父フリードリヒはユダヤ系の医者で作家、2歳年上の兄マルクスは長年にわたり東ドイツの国際秘密情報機関(シュタージ)の幹部だった。1933年、一家はモスクワに亡命。翌年からコンラートは現地のカール・リープクネヒト校に通い、1936年にソ連国籍を取得する。映画好きだった彼は、ドイツ人グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム監督の「DER KӒMPFER」(36)に出演。
1942年12月、高校9年級を終えて徴兵され、軍政務局の翻訳通訳部に配属される。第二次大戦末には少尉としてドイツに進軍し、ザクセンハウゼン強制収容所の解放で功績をあげ、ソ連政府より勲章を授かる。戦後もソ連軍に所属し、〈ベルリン新聞〉特派員として東ベルリンに駐在した後、ハレ市の文化担当官となり報道・出版などの検閲に携わる。1946年12月には陸軍中尉を退官し、1948年までソ連宣伝省の教育・青少年・スポーツ担当官を務める。
1949年に全ソ国立映画大学(WGIK 現〈全ロシア映画大学〉)に入学し、ミハイル・ロンムやセルゲイ・ゲラシモフらに師事。1952年2月に東ドイツ国籍を取得し、SED(ドイツ社会主義統一党)党員となる。1953年にクルト・メーツィヒ監督の助手として実習し、1954年にWGIKを卒業、デーファ劇映画スタジオに招聘される。
映画監督デビューは1956年の「GENESUNG(回復)」(ダマスカス国際映画祭銅賞)。続く「LISSY(リッシー)」(57、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭グランプリ)、「星」(59、カンヌ国際映画祭審査員特別賞)、さらに父フリードリヒ・ヴォルフ作の戯曲を映画化した「PROFESSOR MAMLOCK(マムロック教授)」(61、モスクワ国際映画祭金賞)、「僕は19歳だった」(68)、「ママ、僕は生きてるよ」(77)など、コンラート・ヴォルフ作品には第二次大戦やユダヤ人をテーマにしたものが多い。その他の代表作は「引き裂かれた空」(64)、「GOYA(情熱の生涯 ゴヤ)」(71、モスクワ国際映画祭審査員特別賞)、「ソロシンガー」(80、ベルリン国際映画祭銀熊賞)など。1982年3月7日、東ベルリン没。
〈コンラート・ヴォルフ生誕100年 特集上映 2025〉
企画:山根恵子
主催:ユーロスペース、シネ・ヌーヴォ
協力:DEFA財団、ドイツ・キネマテーク、ゲーテ・インスティトゥート東京
記事提供元:キネマ旬報WEB
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