「エアーかおる」を生んだ浅野撚糸が福島・双葉町に新工場建設!しかし想定外の苦難が…:読んで分かる「カンブリア宮殿」
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「魔法のタオル」で大躍進!~倒産危機から復活した町工場
岐阜・安八町の田んぼの中にたたずむのは、高品質のタオルが割引価格で買えるアウトレットショップ「エアーかおる本丸」。店内は大勢の客でごったがえしている。
客の心をしっかりつかむタオルは「エアーかおる」。最大の特徴は吸水力。一般的なタオルでは吸いきれない量の水を、「エアーかおる」はほとんど吸い込んでしまう。

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タオルを開発したのはショップの隣にある浅野撚糸(ねんし)。本業はタオルの製造ではなく、生地の元になる撚糸の製造。撚糸とは、複数の糸を撚(よ)り合わせて作る新たな糸のことだ。
大ヒットタオルに使われたのは、独自開発した抜群の吸水力を持つ「スーパーゼロ」という撚糸。「スーパーゼロ」は綿の糸と湯に溶ける水溶性糸をねじり合わせて作る。この撚糸を湯に浸すと、水溶性糸だけが溶け、撚った力の反動で綿が膨らみ、繊維に隙間ができる。こうして吸水力抜群の「スーパーゼロ」ができる。
「スーパーゼロ」から作った「エアーかおる」が発売されたのは2007年。すると「魔法のタオル」と話題になり、累計1900万枚を売り上げる大ヒットとなった。

休日には100万円を売り上げるというショップで、「タオルが完成した時、問屋さんに『高い!』とみんな断られた。誰も買ってくれなくて会社が危なくなったの」と客に話していたのは浅野撚糸社長・浅野雅己(64)。衰退する繊維産業で、唯一無二の商品を開発し下請けから脱却した「業界の風雲児」だ。
「大事なのは立ち止まらないこと。また新しいヒット商品を作る。撚糸の組み合わせは無限ですから」(浅野)

「スーパーゼロ」は家庭用にとどまらず、ホテル業界でも活躍している。
東京・港区の「メズム東京オートグラフ コレクション」は世界最大のホテルチェーン「マリオットグループ」と提携する超高級ホテル。ここではその品質に惚れ込み、「『スーパーゼロ』を使用したメズムオリジナルのバスタオル」(総支配人・生沼久さん)を2020年の開業当時から全室で採用しているという。
「外国の方からは『こんなに軽くて肌触りが良くて吸水性が高いタオルは、見たことも使ったこともない』と。ホテルの中やオンラインストアで販売しており好評をいただいております」(生沼さん)
浅野は2018年に一度「カンブリア宮殿」に登場している。
「エアーかおる」がヒットする以前には、中国などに仕事を奪われ廃業の危機に陥ったこともあった。その当時の苦境を、浅野は次のように語っていた。
「1995年から新しい機械を入れて、協力工場も私を信じて機械を買った。その機械が入り始めたのが1998年ぐらいで、その頃から仕事がなくなって借金だけが残った」
協力工場は細々と仕事を請け負う兼業農家が多く、余裕のないところばかりだった。浅野は「もし(廃業して)協力工場さんを見捨てたら、何人か自殺者が出たと思います」と話していた。
その後、浅野は取り憑かれたように研究を重ね「スーパーゼロ」を開発。それが大ヒットタオルを生み、会社も協力工場も生き伸びた。
30億円の工場で被災地復興~度重なる予想外の出来事…
前回の出演から7年。「エアーかおる」の大ヒットで社員は4倍の69人に、年商は倍近くの19億円に拡大した。だが、浅野は「この3年くらいが一番、苦しかったかな、人生で」と言う。またしても苦難の日々を送っていた。
その舞台は岐阜から遠く離れた福島・双葉町。2011年の東日本大震災で原発事故を起こした「福島第一原発」がある町だ。
かつて約7000人が住んでいた町は、一時は誰も住めなくなった。しかし、放射能に汚染された環境を回復する除染が行われ、2022年に一部地域の避難指示が解除された。居住可能エリアは町の15%。現在は180人が暮らし、今後、居住可能エリアも広がっていく見通しだ。
この町に2023年、浅野は浅野撚糸の双葉事業所を作った。30億円の投資をして作り上げた新工場だ。屋根の上には大きく「スーパーゼロ」の文字が。工場の最大の目的は地元に雇用を生み出すこと。岐阜の本社工場の3倍の広さにした。
さらに、見学者用のお土産のタオルショップに、周辺住民の憩いの場にしようとカフェも作ったが、「閑古鳥ですよね、機械も動かないし」(浅野)。

そもそもは2019年、経産省から福島の復興に力を貸してくれないかと相談されたのがきっかけだった。その時は、話を受ける気は一切なかったと言うが、福島大学出身ということもあり、ひとまず会社の幹部とともに双葉町の見学ツアーに参加する。
「幹部と旅行に行くこともないから、帰りは富士山と温泉に寄って『一杯やろう』みたいなノリです」(浅野)
しかし現地についた浅野は、その光景に大きな衝撃を受ける。ショックを受けたのは、見た目はなんともない家が並ぶ人の消えた街並みだった。
「家がご主人の帰ってくるのを今か今かと待っているような……町自体がそういうたたずまいで、それを見たらもう知らない顔はできない。そこでしょうね、分岐点は」(浅野)
覚悟を決めた浅野は補助金と借金、30億円で新工場を建設。2023年、岐阜から移ってもらった社員と地元採用の社員、合わせて20人でスタートした。
だが、実は想定外続きの船出だった。その1つが帰るはずだった町民。2022年に一部の避難指示が解除され、500人が戻ると言われていたが、2022年8月からの1年間で、戻ってきたのは30人ほどの高齢者ばかりだった。
いわき市から戻った石井満征さん(87)は「皆さん(避難先の町に)家をつくったり、決まった生活をしている人がほとんど。そう考えるとなかなか踏ん切りがつかないのではないか」と言う。
雇用創出が一番の目的だった浅野にとってそれは思わぬ出来事だった。
「我々の大義は『帰還される町民の働き場所』というのが心の支えだった。苦しいというか、一番後悔した瞬間でしたね」(浅野)
もう1つの想定外が予想以上に長引いたコロナ。冠婚葬祭などがなくなり売り上げは激減し、導入した機械はほぼ停止した。
銀行から新たに3億円を借り入れ、借金は最大26億円に膨らみ、浅野は再び倒産の危機に追い込まれた。
「体重は落ちていくし、夜は寝られない。歯ぎしりで奥歯が全部つぶれました」(浅野)
浅野はまたしても窮地に追い込まれた。
窮地を救った新入社員の言葉~倒産危機からの大逆転劇
「ずっと後悔。でもそれを言ったら社員たちに失礼ですよね。でもずっと後悔していました」(浅野)
「いい格好をして引き受けなければよかった」というようなことばかり考えていた浅野を大きく変える出来事があった。
それは福島県の高校生たちが新入社員の話を聞きにきた時のこと。高校生からの「あなたにとって復興とは何ですか?」という質問に、現地採用の19歳の新入社員が答えていた。
「私はこれまで復興に何の役にも立てませんでした。でもこの会社に入ればやれると思いました。私の復興は『私がここにいること』です」
その言葉に浅野は「壁の向こうで泣いて、自分を恥じました。『何を後悔しているんだ』と。もうスイッチが入りましたね」と言う。
浅野はまず、新たな販路の開拓に動く。これまでは視野に入れていなかった「コストコ」やドラッグストアなどの大手小売チェーンに営業をかけた。
この戦略が功を奏し売り上げが回復。月単位では黒字に転じた。
さらに浅野が取り組んだのが売り上げの起爆剤となる新たなタオルの開発だ。
タオル用に開発した撚糸は「柔らかさ」とタオル製造に耐えられる「強さ」、ギリギリのバランスを追求した。
この撚糸を使って作った新しいタオルが「わたのはな」。「エアーかおる」の吸水力はそのままに、より柔らかな肌触りを実現した。これが百貨店を中心に採用され売り場に並ぶ。
バスタオルの半分のサイズで1枚2640円~と安くはないが、すぐに新たなファンがついた。

こうして仕事が増え、新工場の機械もフル回転となった。大きな赤字を出した時期もあったが、業績はV字回復し、黒字が見込まれるという。
さらに浅野は旅行会社と手を組み「双葉町の視察」を掲げたツアーを実施。企業研修や修学旅行、海外からの視察もあり、多い月には1000人を超える人たちが来ている。

こうした新しい仕事を支えているのが現地採用の新入社員たち。全員が東日本大震災を体験している。南相馬市出身の岡田綾菜(19)に会社の志望理由を聞いた。
「一番は復興に携わりたかったからです。自分も幼い頃に震災を経験しているので、町の方々の心に寄り添いたいというのが大きかったです」
カフェでは、浅野の心にスイッチを入れた社員の鈴木志歩(20)が働いている。新工場の開業に合わせて採用されて2年。いわき市の出身だが、双葉町に移った。夕食はほとんど自炊だと言う。
「双葉町は今、コンビニが1軒しかなくて、しかも夜8時に閉まるのでちょっと不便です」
親元を離れ、双葉町での暮らしを選んだ鈴木には、こんな思いもある。
「いわきも被災したけど復興は進んでいて、今は昔の生活とほぼ変わらない状態なのに、少し北上するだけで何もない。そういう中で双葉町に来られているのは、周りに発信できる一歩かなと思います」
世界の高級ブランドも絶賛!~「究極の糸」から生まれた新商品
この日、浅野が現れたのはオシャレな店が並ぶ東京・南青山にある「スーパーゼロラボ」。浅野撚糸が誇る「スーパーゼロ」を素材にアパレルを作った。ここはそのショップだ。

「この南青山から世界の高級ブランドを攻めようと思います。岐阜の田舎者が南青山はどうなのかと思いますが、我々としては手応えを感じています」(浅野)
手応えを感じることができるのも、世界的なテキスタイルデザイナーの梶原加奈子さんがいるから。梶原さんは「イッセイミヤケ」の元で生地の企画から行うテキスタイルデザイナーになり、独立後は数々のコンテストでグランプリを獲得。アパレル業界では一目置かれる存在だ。
「唯一無二の糸で、生地になった時の面白さも知っていたので、もっと浅野撚糸さんの可能性を一緒に広げられたらすばらしいなと思って」(梶原さん)

そこで「ASANO KANAKO KAJIHARA」というブランドを立ち上げ、生地の質感にこだわった商品を開発している。
常連になったと言う客は「肌触りが良くて、他のものが着られない。柔らかくて優しい。大手の温かいものはチクチクするけど、本当に肌触りが良いです」と言う。
2月にはファッションの街、イタリア・ミラノで開かれた展示会「ミラノ・ウニカ」に出品。「サンローラン」をはじめ、「プラダ」や「ロエベ」など、誰もが知る世界的なブランド、20社ほどが興味を示しているという。
七転び八起きの人生を歩んできた浅野。この挑戦は果たしてどんな結末を迎えるのか。
※価格は放送時の金額です。
~村上龍の編集後記~
撚糸の写真、わたしはDNAを思い浮かべた。よく似ている。生命の源であるDNAと撚糸。たとえば生糸、そのままでは糸として使えない。この生糸の束に撚りをかけると丈夫な1本の糸として使えるようになる。2007年「柔らかい、吸水性もいい、何より毛羽立ちしない」これで会社は救われる、意気揚々と全国のタオル問屋を回るが全滅。「気晴らしに築地で寿司でも」「おいしい、いつか社員を連れてきたい」妻の言葉が腹をえぐった。その後、「スーパーZERO」で福島県双葉町に工場を。苦労の海に乗り出していく。だが、得るものも大きい。
<出演者略歴>
浅野雅己(あさの・まさみ)1960年、岐阜県生まれ。1982年、福島大学教育学部卒業。教員を務めた後、1987年、浅野撚糸に入社。1995年、代表取締役社長就任。
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記事提供元:テレ東プラス
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