コラム「旅作家 小林希の島日和」 「星に願いを」

3月は別れの季節だ。この季節に島を訪れると、島の中学生や高校生が卒業を迎え、間もなく島を出るという場面に出くわす。学校の先生や警察官、役場の人などの中にも、数年の勤務を終えて、島を出る人がいる。港では、別れを惜しむ声が聞こえてくる。「いつでも帰ってきて」「元気で」「いってらっしゃい」「ありがとう」
昨年11月、私宛てにこんなメールが届いた。「来年3月に、島を出ることになりました。こちらに来ることがあれば、寄ってください」
差出人は、瀬戸内海の香川県三豊(みとよ)市に属する粟島(あわしま)の「ル・ポール粟島」という宿泊施設の支配人。同施設は三豊市が所有し、指定管理者となる会社や団体が定期的に変わる。今回はそのタイミングで島を出るのだそう。粟島には何度も行き、その度にお世話になったのがこの支配人だ。島外・他県の出身だが、「島目線」で物事を考え、島を愛し、島を熟知している人だと思う。
粟島は、1897年に日本で初めて海員養成学校が創設され、数多くの外洋船員を輩出した。彼らは、世界の七つの海や南極大陸にまで航海し、日本に貢献してきた。1987年に廃校となり、跡地は「粟島海洋記念館」として、一般公開されている(現在工事中)。1920年に建築された淡いブルーの木造建物で、粟島のシンボルだ。
昨年12月に粟島を訪れると、支配人が、すべて手描きの大きな世界地図を見せてくれた。あるイベントで、外洋船員だった島のおじいさんたちが、各地での思い出を地図に記したものだ。例えば、アフリカ大陸の南端にあるポートエリザベスには「ダチョウの卵を買った。1個焼いたら20〜25人分あった。味はイマイチ」とか、南極大陸の昭和基地には「観測船ソーヤで物資を運ぶ。4億5千万年前の石を持って帰る」とか。余白部分には、寄港地に関係なく、それぞれの航海を振り返っての言葉が綴(つづ)られていた。「チチ・キトクの電報を受けた時、18歳だった。富山港から下船して、夜汽車で帰った。今も涙が出る寂しい思い出。今も夜汽車はキライ」
支配人は、島生活の中で、島の方々から信頼され、さまざまな貴重な記録や手製の資料などを預かってきたと言う。「それも、お返ししなくては」と、寂しそう。
夜、食堂にいると、支配人がハンドベルを持ってやってきた。「島にいる間に練習しまして」と言って、『星に願いを』を奏でてくれた。ぎこちなく、やさしい音色だった。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 9からの転載】
KOBAYASHI Nozomi 1982年生まれ。出版社を退社し2011年末から世界放浪の旅を始め、14年作家デビュー。香川県の離島「広島」で住民たちと「島プロジェクト」を立ち上げ、古民家を再生しゲストハウスをつくるなど、島の活性化にも取り組む。19年日本旅客船協会の船旅アンバサダー、22年島の宝観光連盟の島旅アンバサダー、本州四国連絡高速道路会社主催のせとうちアンバサダー。新刊「もっと!週末海外」(ワニブックス)など著書多数。
記事提供元:オーヴォ(OvO)
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