まさか、あの強い安ちゃんが!?――和田良覚も悔しがった「道場破り」失敗から「打倒グレイシー」へ
UWFインターナショナルで屈指の実力者だった安生洋二と和田良覚レフェリー(写真/和田氏提供)
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第40回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回につづき、30年以上にわたりさまざまな格闘技イベントでレフェリーを務め、トレーナーとしても多くの選手に慕われる、和田良覚(わだ・りょうがく)氏をフィーチャー。筋骨隆々な肉体で、自身がMMAの試合に出た経験もある〝最強レフェリー〟の濃厚すぎる人生に迫る!(前回記事はこちら)
■「挨拶と交渉」のはずが「道場破り」に1994年12月上旬、和田良覚は安生洋二がアメリカへと旅立った日のことをよく覚えている。
「だって、成田空港まで送っていったのは僕ですから」
別れ際、和田はこんな言葉を投げかけた。
「安ちゃん、気をつけて! 頑張ってね!」
出国ゲートに向かう安生に手を振った時点では、まさか数日後に安生がヒクソン・グレイシーと闘うことになるとは夢にも思わなかった。それはそうだろう。安生の訪米目的を「挨拶と交渉」と和田は聞いていたからだ。
同年7月29日開催の『バーリトゥード・ジャパン・オープン94』(以下、『VTJ94』)で鮮烈な日本デビューを果たしたヒクソン・グレイシーはすぐUWF系団体のターゲットとなった。
その中でもいち早く行動したのがUWFインターナショナルだった。『VTJ94』の3ヵ月後には「ケンカルール、金網デスマッチ、時間無制限による(髙田延彦と)ヒクソン・グレイシーとの一騎討ちを要求する」と宣言していた。
まだMMAは競技として成熟しておらず、異種格闘家同士の一騎討ちが多く、バーリトゥード(ブラジルの公用語であるポルトガル語で「何でもあり」を意味する)と呼ばれていた時代の話だ。「ケンカマッチ」「金網デスマッチ」という文言は決して時代錯誤ではなかった。
続いて11月30日にはUインターは「安生洋二選手をグレイシー柔術へのヒットマンとして正式に送り出すことが決定しました」と公式にアナウンスした。これは、髙田戦に対してなかなか首を縦に振らないヒクソンへの挑発であり、交渉を加速させるための、プロレスでいうところのいわゆるアングルづくりだったのだろう。
しかし、ヒクソンは〝プロレス村〟の住人ではなかった。Uインターが描いたストーリーに乗っかる気などさらさらなかった。Uインター側に対しては「ビジネスの話は弁護士を通してくれ」と主張し、それでも闘いたければ、「髙田よ、俺と闘いたいのであれば道場破りに来い。道場破りであれば、わたしはいつでも相手になってやる」と、自分は迎え入れる立場であることを強調した。
ボタンの掛け違いといってしまえばそれまでだが、ヒクソンからしてみれば安生が道場に来た時点で事は穏やかではなく、それはストレートに道場破りを意味していたのだ。
21世紀の現在も、アメリカにある格闘技の道場やジムには道場破りがいきなり訪れる。負ければその話が即座に流布されるので、道場・ジム経営は立ち行かなくなる。オーナーからすれば、絶対に負けるわけにはいかない。
安生としては自分の任務はあくまでも交渉だったが、仲介者が「道場破りを敢行したい」という旨をヒクソン側に伝えてしまっていたことも前代未聞の果たし合いの実現に拍車をかけた。
結果はヒクソンが安生をパウンドで殴り続けた挙げ句、6分半過ぎに裸絞めで絞め落とした。のちに判明したことだが、この時点でヒクソンは自分と対峙した安生を髙田だと思い込んでいたという。
安生洋二と和田レフェリー(写真/和田氏提供)
安生が完敗を喫したというニュースに和田は唇を噛んだ。
「ヒクソンからしたら、『来るならやるぞ』ということだったのでしょう。安ちゃんは本当に強かったので、あんな血まみれの姿の写真を見て『まさか、あの強い安ちゃんが!?』と思いました。とにかくショックで信じられない気持ちでいっぱいでした」
決戦からすでに30年の歳月が経つが、いまでも和田は当時の安生が置かれた状況を慮(おもんぱか)る。
「結局、安ちゃんは何の準備もしないまま、ヒクソンの道場に行ったはずです。その日(の安生は)二日酔いみたいな感じだったので、挨拶だけして『また来るんで』という感じの予定だったと聞いています」
■「Uインターがやっていたことは総合格闘技の走り」その一方で和田は「やっぱりすげぇな」とグレイシー柔術の強さを認めざるをえなかった。
「正直、ちょっとたかをくくっていたところもあるんですよ。でも、(道場破りになっても)安ちゃんだったらなんとかなるんじゃないかと期待していた。そうしたら、ああいう結末でしたからね」
その後、Uインターは柔術対策に本腰を入れるようになる。この団体の選手たちに最初に柔術の手ほどきをしたのは、エンセン井上だった。
エンセンはハワイ出身の日系アメリカ人4世で、ラケットボールの選手として来日。その後ヒクソン・グレイシーの登場で揺れるプロ修斗の中心ジム「PUREBRED大宮」で、当時唯一の柔術の使い手として注目を集める存在だった。
柔道の源流である柔術は日本発祥の格闘技ながら、20世紀初頭に伝播したブラジルで独自の発展を遂げており、90年代半ばの時点で日本の格闘家にとってはミステリアスな存在だった。
当時Uインターとプロ修斗は対立関係にあったが、エンセンにとって過去の経緯など関係なく、重量級の選手が揃ったUインターの道場は格好の練習場だった。和田は「Uインターの後期からエンセンは道場に来ていた」と振り返る。「そこで、金原(弘光)や桜庭(和志)たちは、柔術を初めて学んだわけです」。
レフェリーである和田(後列右)も、選手たちと一緒に練習して強くなった(写真/和田氏提供)
柔術だけではない。レスリングコーチにはバルセロナ五輪のレスリング・フリースタイル62kg級日本代表の安達巧氏が就いていた。また立ち技では母国タイではムエタイのランカーとして活躍したボーウィー・チョーワイクンがコーチとして常駐していた。
「さらに大江ちゃんもいたから、Uインターの選手の蹴りは本物。本職のキックボクサー並みにうまかった」
大江とはシュートボクシングの元王者で、のちにUインターの中では唯一日本人のスタンディングバウト(キックボクシング)の選手として所属していた大江慎を指す(その後、女子プロレスラーの中西百重と結婚。現在はスターダムの解説者としても活躍中)。
MMAが競技として繁栄していくと、アメリカの大手ジムはレスリング、ムエタイ、柔術など競技ごとにコーチを置くことで、選手が強くなるための環境を整えていった。Uインターはアメリカより一足早くそれをやっていたことになる。和田は「Uインターがやっていたことは総合格闘技の走り」と胸を張る。
「ルー・テーズやカール・ゴッチが教えるストロングスタイルのベースがあったうえで、全部やっていたんだもの。唯一課題があったとすれば、顔面パンチのテクニカルやパンチの質だったと思うけど、それだってテクニックの習得に貪欲な選手はボクシングジムに出稽古に行っていましたからね」
こうした恵まれた環境が、田村潔司、金原弘光、桜庭和志ら総合格闘技でも通用する選手たちを作り上げたといっていい。奇しくもこの3名は安生を相手に練習を積み上げ強くなっていったというプロセスがあったので、安生が敗れたことで、団体内では「打倒グレイシー」の機運がさらに高まっていた。
「みんな悔しい思いを胸に秘めながら練習していたと思います。そうした中、エンセンも練習に合流してくれました。エンセンのおかげでUインターの選手の寝技のレベルが上がったのは間違いありません。あの強いエンセンがよく言ってましたよ。金原と桜庭は本当に強い!って」
Uインターのエース・髙田延彦を攻める田村潔司(写真/和田氏提供)
「UWFの智将」と呼ばれた金原弘光(写真/和田氏提供)
安生洋二と対戦する桜庭和志(写真/和田氏提供)
しかし安生がヒクソンに敗れたことで「最強」を旗印に活動していたUインターのイメージは大幅にダウン。さらに大手スポンサーの不在、大物外国人レスラーのギャラ高騰などの問題も重なり、台所事情はすぐさま火の車になった。Uインターの社員だった和田の給料も遅配が続き、ついには出なくなってしまったので、前回の記事のように用心棒稼業で稼ぐしかなかったのだ。
96年12月、Uインターはついに解散。メンバーの大半はプロレス団体として初めてオープンフィンガーグローブ着用による顔面パンチとマウントパンチを認めたキングダムという新団体に移籍する。和田も週末に用心棒をして生活費を稼ぎながら新団体に身を寄せた。
「キングダムには終わるギリギリまでいたけど、やっぱりいても食えなかったですからね」
困窮する生活。先の見えない不安。八方塞がりの和田に「食えないやろ?」と手を差し伸べる者が現れた。新生UWFが分裂して以来、交流が途絶えていた前田日明だった。
(つづく)
取材・文/布施鋼治
記事提供元:週プレNEWS
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