「大人になる」ということの本質がわかる名著『生きるとか死ぬとか父親とか』
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「親の老いに真正面から対峙するとき、人は本当の意味で大人になるのかも知れません。」そう語る藤原さんのおすすの本が、『生きるとか死ぬとか父親とか』。いずれ訪れる「大人になるとき」にどう向き合うのかの知恵と勇気を得られる名著なんだそう。
イチオシスト:藤原 千秋
大手住宅メーカー営業職を経て住まいや暮らしの記事を執筆し20年以上。監修、企画、広告、アドバイザリー等の業務にも携わる。プライベートでは三女の母。
『この一冊ですべてがわかる! 家事のきほん新事典』(朝日新聞出版)など著監修書、マスコミ出演多数。
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母を20年前に亡くした著者と、老いていく父との関係が綴られた名著
「親の老い」に真正面から対峙するとき、人は本当の意味で「大人になる」のかも知れません。
きっと誰もに否応なく訪れる、そのとき。決して楽しみではない、憂鬱さや恐怖を伴うだろうその時間を、いま生きるひと組のジェーン・スーさん父娘の数十年に渡る物語のなかから、自分自身がどう「それ」に向き合うのかの知恵と勇気を得られる玉稿です。
「私も大人になったら…」と大人も考える
「大人」って一体、何歳からほんとの「大人」なんでしょうか……。よもや45歳にもなんなんとする自分が、まさかそんな寝言を並べる日が来るなんて。いっぱしの「大人」になったと思っていた20歳のころの私には、想像もできませんでした。が、これが本当によく分からないのです。困ったことに。
「成人する」「就職する」「結婚する」「出産する」といったライフイベントの類が、ほとんど自分として「大人になる」ということに寄与しなかったことは、振り返ってみるに、しみじみ予想外でした。こんなはずではなかった。
先日、日比谷の帝国ホテルの前を歩きながら、「私も大人になったらこんなところのバーでしっとり飲みたいものだ」などと素で考えて、5分くらい経ったところで「私、さっき何て、思った?!」とビックリしました。「大人になったら」って何それ? と。え、まさかそのトシで「まだ大人じゃない」と思ってるの? と自分で自分に突っ込んで、どっと疲れたのです。
誰もが直視したくない「親の老い」
この本、『生きるとか死ぬとか父親とか』を上梓されたジェーン・スーさんは、「そのトシ」な私とほぼ同世代の、気鋭の書き手でいらっしゃいます。皆さんご存知コラムニストとしての顔、ラジオパーソナリティーとしての顔で知られていますが、音楽に関わる肩書きもあり、多才。なかでも彼女の綴る、竹を割ったような人柄が滲み出ているコラムは胸のすく思いをするようなものが多く、これまでも新刊が出るたび楽しみに読んできました。でも『生きるとか死ぬとか父親とか』は、買った後、なかなか扉が開けられなかった。なんというか「そこを見るのが怖い」。「そこ」というのは、表題、「親の老い」がらみのことです。
後退りながら、私のなかの私がこう言うわけです、「そういうのは大人になってから考えます……」。って、おいちょっと待て! おまえもういい大人だろうって私のなかのもう一人の私は冷静に突っ込むわけですが、実際問題自分の親の老いももう待ったなしの状態ではあるのです。でも、直視したくない。できればしたくない。可能な限り見て見ぬ振りをしたい。
「大人になる」ということの本質
『生きるとか死ぬとか父親とか』は、蓋を(扉を)開けてみると、実在する「父と娘」の記録でありながら物語に昇華された、結晶のような、きわめて読みやすい読み物でした。コラムよりも小説に近い。冷たいわけではないけれども、冷静な俯瞰の姿勢は崩さない、浮き足立たないまなざしで、自分の背後から父親と自分との身に降りかかった出来事を記録(記憶)している。
この筆致の淡々としたありように、不思議な安らぎを感じました。誰しも、きっと、40数年も生きていれば、その身には人に言えないような、いろいろなことが起こります。なぜ私だけがこんな目にあうのかと天を呪いたくなることもある。でもそれは、「私だけではない」。ギリギリのところまで踏み込んでいる(と感じられる)スーさんとお父さんの物語の開示に、そう信じられる。励まされる。
時折、本の扉を閉じ、自分自身や親の人生を思いました。そんなふうに一時中断することが多く、読み終わるのに普通の本よりも時間がかかりましたが、たぶん、「こういうまなざし」を身につけることが、「大人になる」ということの本質なのだ、と、心の底から、思えたのです。
DATA
新潮社┃生きるとか死ぬとか父親とか
著者:ジェーン・スー
発売年:2018年5月
判型:単行本
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