「怪物(モンスター)に憧れた少年」 プロボクサー・伊藤千飛の夢<前編>
イチオシスト

小5の冬――。幼い頃からキックボクシングに打ち込んできた10歳の少年は、兵庫県伊丹市にある自宅リビングのテレビの前で固唾を呑み、"あるボクサー"の試合に釘付けになった。
2014年12月30日、東京体育館――。
画面の向こう側では、ライト・フライからスーパー・フライへと階級またぎして2階級目の世界王座を目指す21歳の井上尚弥が、WBO王者オマール・ナルバエス(アルゼンチン)を追い詰めていた。
「ナルバエス、ダウン! まさかの展開です!」
46戦44勝(23KO)1敗1分の戦績を誇る難敵、ナルバエス。実況アナウンサーと解説者の声が弾むたび、少年の鼓動も速くなった。
1ラウンドで2度、2ラウンドでも2度のダウンを奪った井上は、2ラウンド3分1秒、TKO勝利。わずか8戦目で、世界最速となる2階級制覇を達成した。それは現在(いま)につながる、"モンスター伝説"の幕開けでもあった。
「キックボクサーだった自分がボクシングに惹かれたのは、尚弥さんのあの試合がきっかけでした。『拳ふたつで、あれだけ人の心を動かせるんだ』って......」
いつか自分も――。
衝撃のKOシーンを目撃した少年は、以来キックボクシングの試合でもあえて蹴らず、拳のみで戦いKO勝利を重ねた。
あの日から、まもなく11年。先月25日、20歳となった少年――WBOアジアパシフィック・バンタム級2位の伊藤千飛は、エディオンアリーナ大阪で同級9位のリカルド・スエノと対戦。終始圧倒し、2回1分48秒TKOで、デビューからの連勝を5(4KO)に伸ばした。
【東西で歩むそれぞれのミライ】デビュー5連勝を飾った同日の3ヶ月前。千飛は、メディア等から"モンスター2世"あるいは"ミライ・モンスター"と称される坂井優太のスパーリングパートナーとして大橋ジムに呼ばれていた。それは初めて、憧れ続けてきた井上尚弥と対面する機会を得た瞬間でもあった。
「最初、『大橋ジムから、優太の相手をお願いしたいと依頼が来た』と聞いた時は、『それ、どういうこと!?』と思いました。親父も、『おまえ、舐められとるぞ』と、少し不機嫌そうでした。でも、嬉しかったですね。優太と久しぶりにスパーすれば、いまの自分の実力もわかる。何より、尚弥さんに逢えるかもしれない。それが一番楽しみでした」
現日本バンタム級ユース王者の坂井は、千飛と同じ20歳。ふたりは小6からの幼馴染であり、中学卒業までは地元伊丹市にある同じボクシングジム(エスペランサジム)で汗を流す盟友だった。
当時、ふたりはジム主催のスパーリング大会で一度だけ対戦。その時はキックボクサーとして実戦経験をより多く積んでいた千飛が、接戦の末に勝利した。以来、一度も拳を交えていないし練習もしていない。
スパーリングパートナーとして招集された千飛が驚き、父親が少々不機嫌になった理由は、そんな伏線があったからだ。ちなみに千飛の父親・陽二は、元キックボクシングのランカーで、千飛がキックボクシングを始めたのは父親の影響だった。
中学卒業後、坂井は県立西宮香風高校(兵庫)、千飛は興国高校(大阪)へと進学。いずれもアマチュアボクシングの強豪校だが、別々の道を選んだ。
坂井は高校時代、1年時から活躍し、インターハイ・選抜・国体合わせて6冠達成。世界ユースでもバンタム級で金メダルを獲得し、日本ボクシング連盟の年間最優秀選手にも選ばれた。千飛も、選抜2冠、アジアユース選手権で3位と実績を残したが、高校時代の実績では大きく水をあけられた。
2年のインターハイ時の活躍が大橋会長の目に留まった坂井は、"ポスト井上尚弥"と期待され、高校卒業後は大橋ジムでプロ転向を決めた。「2028年開催予定のロス五輪のメダル獲得候補」と期待される中、大学ボクシング部からの多数の誘いはすべて断っての決断だった。
坂井と同じように、千飛も高校卒業後はプロ転向すると早々に決めていた。しかし、関東にある大手ジムからの誘いはなかった。関西に残り、父親の道場(真門伊藤道場)に通っていた現日本フライ級4位、井上夕雅(ゆうが)に紹介してもらい、長谷川穂積と二人三脚で世界を戦ったことで知られ、指導力に定評のある伯楽、山下正人会長のいる真正ジム(神戸)の門を自ら叩いた。



試合直前、控え室で山下正人会長の構えるミットと叩く千飛。絶大な信頼を寄せ、二人三脚で世界を目指している
JR横浜駅西口から徒歩5分。地上8階建てビルの3・4階に構える大橋ジムは、常に多くのプロボクサーや一般会員でにぎわっている。
「まわりの目は、"ザ・敵"って感じでした。選手が多くて、サンドバッグの数は足りない。なのに、自分みたいな部外者が使っていいのか分からず、初日は恐る恐る打たせてもらって......。2日目からは、スパーが終わればシャドーだけして、宿に戻っていました」
デビュー戦での初回55秒TKO勝利以降も連勝を重ねた千飛の名前は、徐々に業界でも知られる存在になっていた。ただし坂井との関係を知る者は少ない。大橋ジムの選手やトレーナーも、「坂井と同い年のボクサーが腕試しに来た」と受け止めていた。
千飛自身も、あえて関係を語ることはなかった。それもあり、余計にまわりは距離をとったのかもしれない。張り詰めた空気の中、週3回、1回あたり6ラウンドのスパーリングを続けた。
決して居心地が良いとは言えない雰囲気の中、長期間の遠征で支えとなったのはやはり、あの憧れの存在だった。
「初日は4ラウンドでした。初回、右構えから左構えにスイッチして打った右フックが、ドンピシャで優太にヒットしました。右フックが決まった瞬間、たまたま尚弥さんも見ていて、『うおーっ!』と声を上げて反応してくださいました。大橋会長からも『メッチャ強いな』と褒めていただけました。尚弥さんと大橋会長とは、それがきっかけで挨拶しやすくなり、ふたりからは気軽に話しかけていただけるようになりました」
「ボクシング」という競技の魅力を教えてくれた憧れの存在が、小5の頃から抱き続けてきた想いのまま、いま目の前にいる。しかも、気軽に会話まで出来るようになった。千飛にとってそれは、夢心地のような時間だった。そして翌日――。
千飛にはさらに驚くような出来事が待っていた。(後編に続く)
●伊藤千飛(いとう・せんと)
2005年6月25日生まれ、20歳。兵庫県伊丹市出身。元プロキックボクサーの父親の影響で4歳からキックボクシングを始め、ジュニア日本王者に。同時にボクシングにも取り組む。興国高校進学後、ボクシングに専念し選抜2冠、アジアユース&ジュニア選手権で銅メダル獲得。2024年1月にB級ライセンス取得し同年4月20日にプロデビュー。戦績5戦5勝4KO。日本バンタム級12位、OPBF東洋太平洋同級8位、WBOアジアパシフィック同級2位。
取材・文・撮影/会津泰成
記事提供元:週プレNEWS
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